さて、ここしばらくサブカルとフェミニズムの関係を論じていますが、今回はそれに関連した採録シリーズ第三弾です。
いや、最低月一回は新作記事を出したいと思うのですが、正直、最近は『Daily WiLL Online』様の方で手いっぱいでして……。
後、時事ネタなどについては一部、初出から改変を行っております。
C.R.A.C.(旧しばき隊)の野間易通氏、漫画家の田川滋氏の発言がきっかけで、「オタク差別」というもののあるやなしやについてが話題になっております。
ぼくの理解できる範囲で経緯をまとめれば、まず野間氏が「オタク差別などなかった」旨の発言をし、青識氏辺りと議論になり、「オタクを差別することなど、そもそも不可能。それは豚を差別できないのと同様(大意)」と放言。それに対する「オタクは豚ではなく人間だ(大意)」との反論に、田川氏が横レスする形で「オタクが人間であると証明ができるのか?(大意)」と問いただしてきた、という感じです*1。
え~と、ぼくがまず両氏を「師匠」呼ばわりしていないことを怪訝に思われる方もいらっしゃるかもしれません。togetterでコメントした時「氏」とつけたので何となくそれを継続させているだけなのですが、敢えてそれに理屈をつけるならばこの二人には特別な感情が沸かないというか、何の興味も抱けないので、自然と「氏」をつけてしまったようです。
正直、二人の言に対して、ぼくは声を荒立てて激昂する気にはなれない。そもそも田川氏の発言の意図はわかりづらく、恐らくは苦し紛れの発言をして、引っ込みがつかなくなっただけなのではと思えます(そういうの、鬼の首と思って得意の絶頂で取りにかかる人もいますが、あんまり自慢になりませんよね)。どうしてそこまで苦し紛れなことを言ってしまったのか、正直それも端から見て理解に苦しむのですが、勘繰るならば(野間氏と田川氏の関係性をぼくは知らないけれども)野間氏を助けようとの義侠心が、田川氏をしてフライングさせてしまった……といったようにも、ぼくには思われます。というのも、見れば見るほどため息が出てしまうほどに、彼らは自らを「極めて清浄な、正常な正義の使徒」と頑なに信じて疑っていないからです。
*1 詳しくは以下のまとめをご覧になってください。他にもいっぱいあるのですが、まあ、代表的なもの、ということで。
「オタク差別など今も昔も存在しない」といういつもの話
オタクが人間であると証明せよ(最近のオタク差別論争の中でのやりとりから抜粋)
さて、一連の騒ぎの中、藤田直哉氏(SF作家。オタク第一世代と思い込んでいましたが、調べたらアラサーという若さ!)は「オタクはオタク差別云々という前に、女性差別など他の人権問題にセンシティブであるべきだ」といった主旨の発言をしていました。
もう一つ、新田五郎さん(ぼくの好きな同人作家さん。アラフィフだったと思います)は「やはりオタク差別という言葉はしっくりこない、差別とはもっと深刻な事態に対して付されるべき言葉だろう」といった意見を述べていました。
この二つの意見は、上の両者のみならず多く聞かれましたし、想像するにわざわざ声を挙げないような人々にこそ共感され得る(即ち、かなり一般的な)意見ではないか……という気が、ぼくにはしています。そしてだからこそ、この二つの意見にこそこの問題の鍵が秘められているのでは……と、ぼくは考えます。
まず、藤田氏の主張を検討してみましょう。これはもちろん、理論的にはおかしな意見です。例えばものすごく障害者を差別する黒人がいたとして、そのこと自体は厳しく批判されるべきだとしても、だからと言ってその黒人(黒人全体は置くとして、その黒人個人)を差別していいことにはなりません。
一方、新田さんの意見は「正しい」とは思わないけれども、心情として「共感」を覚えます。少なくともオタクは奴隷にされたり殺されたりはしていないだろうと。ただ、これについても既に「ならば女性も黒人も現代においてはそうした扱いは受けていないだろう」という反論があちこちでなされており(困ったことに山本弘師匠も言ってました)、それは確かにその通りです。
結局、この藤田氏の意見も新田さんの意見も、「本来の差別」、「真の非差別者」という確固たる存在が前提されており、「オタク」という名の「被差別者」は格下だよ、とまとめてしまうことができるわけです。
そしてそう考えると、(藤田氏はともかく、新田さんを貶める意図はないので、こう申し上げることにはためらいも覚えるのですが)結局これは野間氏の意見とさほど変わらない。
事実、野間氏も「オタクは反差別運動を腐すための口実としてのみ、オタク差別とのロジックを持ち出してくる(大意)」と言っていました。これはむろん、事実と全く相違しており、例えば学校でしか会わない友だちを「学校に住んでいるのだ」と考えるような、自分の主観に囚われた幼稚な誤謬なのですが、やはりその「心情」を汲み取るとするならば、誰もがひれ伏すべき「本来の差別」、「本来の非差別者」がそこには前提され、彼は「我こそはそれに寄り添う真の正義の徒なり」との自意識を持っているとしか、言いようがないわけです。いえ、そりゃあしばき隊のトップなのだから、当たり前ではあるのですが。
しかしこうした考え方は、差別にもランキングがあるのだという価値観が前提されています。即ち彼らは「差別差別」を行っているのです。
仮に「差別差別」をすることが不当でないとするならば、「オタクだから殺した」と「○○人だから殺した」にはランクがあるというトンデモない理屈にならざるを得ません。逆に例えば「○○人だから殺した」といった事例と「やーい○○人と罵った」事例が、ある種、同列に語られてしまうことにすらなってしまうのです(拙著には山崎浩一氏の著作で「セクハラ」という概念がまさにそうしたツールとなってしまっている、「レイプされた」も「嫌な目つきで見られた」もいっしょくたにしてしまう、との指摘がなされている旨を引用しています)。
リクツを言うならば、「差別」という言葉の裏にある根本的な価値観は、「途方もなく不当な偏見が社会全般に拭い難くはびこり、それにより大変な理不尽を味わわされている人がいる」というものです。が、そうした偏見が現代の少なくとも日本に成立し得るかとなると、それは疑問というしかない(逆に言うとそうした世界観を前提できる、ある種のバランスを欠いた人こそが「反差別」であると言えるわけですが)。
先の「セクハラ」について、フェミニズムは「レイプされた」も「嫌な目つきで見られた」も、同じジェンダー規範を根にすることが共通点である、と説明します。さすがにフェミニスト裁判官でも「レイプされた」事件と「嫌な目つきで見られた」事件とを全く同じ量刑で裁いたりはしないだろうが、根は同じだ、というのがフェミの考え方です。
しかし彼女らが言うような「女性への極めて不当な偏見」が今時残っているかどうかは極めて疑わしいし、それがないからこそ彼女らは「ジェンダーフリー」というジェンダーの全否定を行う以外、手がなくなってしまっているのです。
結局、ぼくがいつも言っているように、「差別」という概念自体がオワコンなのだ、ということです。少なくとも近代社会においては、例えば「黒人差別」と言った時に想定されるようなラディカルな差別は解体されてしまっている。もう、「差別」は、ないんです。
だから新田さんのような「差別とはもっと深刻な事態に対して付されるべき言葉だろう」といった意見は、演繹していくと、「そもそももっと深刻な事態」、即ち「差別」はもう、ない、という意見にならざるを得ない。
実のところこれについては、リベラルが「差別」という言葉を置いて「ヘイト」という言葉を持ち出してきた時点で、彼ら彼女ら自身が自分から認めているようなものなのですが、恐らく野間氏(や、それに同意する田川氏たち、一連の人々)にそう言っても、おそらくご納得いただけないことでしょう。彼ら彼女らは「差別」がまだあることにしないと困る人たちですから。
しかし、もう一点、押さえておかねばならぬ点があります。
おわかりでしょう。ぼくがここで「差別はない、ない」と繰り返しても、実は野間氏や田川氏に憤っている青識氏やその支持者たちの方もまた、喜んでくれないであろうことに。
何となれば彼らもまた、「差別」がまだあることにしないと困る人たちですから。
「オタク差別」(ないし「男性差別」)はあるのだ、という言い分はどうしたって、「既に被差別者と確定した者、及びその取り巻き」に対しての「被差別者仲間に入れてほしい」という要求、「オラたちもご相伴に与らせてケロ」という懇願になるしかないのです。仮に物言いが攻撃的であったとしても、本質はどうしたってそうなるわけです。
野間氏の言は、実のところ「誰に断ってワシらの島で被差別者ヅラしとるんじゃワレ! 商売したいんやったら、みかじめ料払わんかい、このフリーライダーが!!」との叫びであったのです。
そして青識氏を始めとする、いわゆる「表現の自由クラスタ」はそう言われても仕方がないのでは……とぼくは考えます。彼らは(そしてまた「男性差別クラスタ」は)結局、「ミソジニーが許されぬのなら同様にミサンドリーも許されぬはずだ」などと主張することが大好きなことからも見て取れるように、「反差別」という理念そのものを疑おうとはしていないのですから。
ぼくはずっと、そうした彼らのスタンスを無理ゲーであると指摘し続けてきましたが、本件はそれが露わになった象徴的な事例であった、ということが言えましょう。
「男性」とは少なくともフェミニズムの世界観では「差別」の主体、最初から悪者なのですから。その悪者が救われるにはどうすればよいのか……ぼくのブログの愛読者の方はもうご存知のはずです。「メンズリブ」とは「フェミニズムに全面降伏し、男性であることを辞めると宣言すれば女性軍の二軍として生きることをお許しいただける」とのありがたいありがたいお誘いでした。
以上は「男性差別」についてですが、「オタク差別」も同様です。
「反差別」は「被差別者」という名の「被害者」「弱者」を想定することから成り立っている思想であり、最初っから仮想敵を想定する必要のある思想だったのですから。
ぼくたちは「オタク/非オタク」という対立構造で世界を認識します。「非リア/リア充」という言葉の流行はその好例です。そうして見れば「オタク被害者論」は、ごく当たり前な、正論であるように思われる。
しかし本件では野間氏も田川氏もそして藤田氏も、「オタクはまず、被差別者ではなく差別者として存在しているのだ」とのスタンスを崩そうとはしませんでした。その時に開陳されるのがオタクが女性や韓国人などを差別しているのだとの、彼らが抑えがたく抱いている妄想だったのです。先に「障害者を差別する黒人」の例を出しましたが、これは彼ら彼女らにとっては適切な例えではない。何となれば「オタク」は「元から、全員、差別している人」という妄想が、彼ら彼女らの中で前提されているのですから。
この妄想、「自分をオタクだと思い込んでいる一般リベ」に実に広範に流布され、しかしいまだ根拠が持ち出されたことが一度もないのですが(ネットにヘイト的な言説が溢れているからだ(キリッというのが根拠であると、彼らはギャグではなく本気で思っているようです)、どうも彼ら彼女らは自分たちの価値観が(当否は置くとして)かなり偏ったものであることに、気づいていないようです。いえ、本当の本当は深層意識下では恐らく気づき、「日本人はどいつもこいつも俺の高説に耳を傾けないネトウヨ!!」と考えている。しかしどうしてもそれを意識の上で認めることができず、「下等なオタクだけが俺たちと異なるのだ」と妄想することで何とか平静を保とうとしている。そんなところが実情である気がします*2。
更に、いつも言うようにオタク業界というのは左派寄りの人々が多いですから、「業界寄りではない市井のオタク」ないし「若いオタク」との意識の食い違いに愕然とし、逆切れ的に「オタクどもはネトウヨだ、レイシストだ!」と絶叫せずにはおれなくなっている。
彼らの「オタクは人間ではない」発言は、実のところ「我々清浄なるリベラル以外の一般ピープルは人間ではない」という彼らの本音を、「通りがいいように」偽装したモノでした。
ただ、一つだけ言うと「オタク文化は日本を、いや世界を席巻し、ある種のパワーを持っているが市井のオタクの多くは弱者男性である」というねじれについて、あまりみなさんご理解が及んでいないきらいがあります。だから彼ら彼女ら(萌え絵に憎悪を燃やすフェミニストなども含め)にはそこをわかってほしいと思う反面、オタク側も自分たちが「表現強者」であることについては自覚的であってもいい気はします(ほら、現代社会における権力勾配というのは実に両価的でしょう?)。
*2 もっとも、「確信犯」かと思われる人もいます。例えば東浩紀師匠は「オタクから遠く離れてリターンズ」(『Quick Japan vol.21』所収)において、
いきなり論壇人みたいになっちゃうけど(笑)、オタクの行動はその意味で、日本社会の醜さを凝縮している。しかし彼らはそれでいいわけ?
日本の「悪い場所」を一番象徴しているのは、明らかにオタクだよね。
などと絶叫し、高橋ヨシキもまた、『嫌オタク流』において
結局、オタクの立脚してるメンタリティって一般人のメンタリティとまったくおなじで、僕はそこに憤りを感じるんですよ。
そのメンタリティは一般人とまったく同じなんですよ。
などと泣き叫んでいました。まあ、先に「確信犯」とは書いたものの、恐らく彼らに自分が何を言っているかを理解するだけの知性はないことでしょうが、まあ、要するにそういうことです。
ともあれ、「反差別」とは漠たる(ホントに実在しているかどうかも疑わしい)「マジョリティ」を仮想して、「何か、そいつらが阿部さんくらい悪い」と思い込むことで成り立っている思想でした。
何故か。「反差別」を標榜するリベラルの本質がまず、「マジョリティへのカウンター」だからです。そこでは「辺境の弱者」を連れてきて自らの運動の「正義」を根拠づける必要がどうしてもある。それはまた、「組織」の子分に「お前は罪人だ!」とまるでキリスト教みたいなことを放言し、罪悪感を煽り、その心理をコントロールするという手法が有効だったからでもあります。
そんなわけで今回の野間氏、田川氏の放言は「若手に見捨てられた旧支配者層のファビョり」とまとめてしまうことができます。しかしぼくが青識氏にも諸手を挙げることができないのは、彼ら彼女らが「老害を勇ましくやっつけている割に、実はその脛を齧り続けることについては屈託がない若手」であったからです。
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