動画の紹介で一回開きましたが、続きです。
未読の方は前回記事と、それとできれば『Daily WiLL Online』様の記事を読んでからご覧いただくことを推奨します。
・三流劇画の逆襲
さて、問題となっている『嫌オタク流』ですが、出版は2006年。まさにオタク文化最盛期と言っていい時期に出された本です。
その意味で同書は見事なまでにオタクに敗北を喫したサブカルの、見ていて気の毒になってくるような半狂乱の逆切れの書、と評する以外に手はありません。しかし、もし仮に同書をサブカルからのオタクへの宣戦布告の書と捉えるならば、十五年経った今となって、僅かばかり、それが実現している……とも思えるのです
『WiLL』様の記事において、ぼくは三流劇画は廃れ、世は萌え全盛であると書きました。もちろんそれはそれで一面の真実ですが、近年、ぼくはずっと「オタク衰退論」を語っています。そこには「三流劇画の逆襲」が絡んでいるのではないか……と思えるのです。
ということで以下はぶっちゃけ、昨今のオタク界隈への不満をぶちまける内容です。或いは、自分が好ましいと思っている作品や表現を貶されたと感じることもあり得ます(基本、固有名詞は出しませんが……)申し訳ないとは思うのですが、そこをお含み置いた上でお読みいただけると幸いです。
また、さすがに自分の身近の話題でちょっと書きづらいものもあります。その辺は「脚注」というテイにして課金コンテンツにしました。具体的な事例がないと納得できない、という方はご覧になってみてください。
ちょっと前、古いエロ漫画家さんの単行本を見かけました。
多分90年代初期から活躍していた人ではないでしょうか。
当時は「萌え漫画」全盛期。いえ、当然当時に萌えという言葉はありません。いわゆるアニメタッチのオタク世代によるニューウェーブ(というのもまた、80年代の匂いのする恥ずかしい言葉だ!)のエロ漫画、当時はロリコン漫画と呼ばれていたのですが、ともあれ、そうした当時の業界で活躍していた人物です。
ところが、その人の絵は当時は当然、アニメ的な(今でいう)萌え絵だったはずなのですが、近年出たと思しきその単行本に描かれていた女性は、何というんでしょうか……申し訳ありませんが、本当に比喩でも何でもなく化け物のようにしか見えないもの。顔もおっぱいもただ、醜悪奇怪な、嫌悪感のみを催させることを目的として描かれているとしか、どうしても思えないものだったのです。もしこのおねーちゃんに迫ってこられたら、ぼくは腰を抜かして失禁することでしょう。
70年代のエロ漫画はこうした絵で描かれる、いわゆる「三流劇画」というものがメインであり、80年以降、「ロリコン漫画」に駆逐されたのですが、この漫画家さん、考えると本来はその三流劇画畑の人だったのかもしれません。そして三十年間、生活のために忸怩たる思いでオタク向けの漫画を描き続け、そしてようやく雌伏の時を経て今、本来自分が描きたかった漫画を描き始めた……のでしょうか。
敵ながらあっぱれというか、開いた口が塞がらなというか。
で、ですが、こういう絵が、最近増えています。ぼくは普段、エロゲのシナリオライターをやっているのですが、本当に「え?」と我が目を疑うような絵が増えました*1。
これらの中には顔だけは何とか「萌え絵」だけど、身体の描き方の方法論は(方法論なんて高尚なものがあちらさんにあるのかは知りませんが)三流劇画に近い、といったものもあります。実際、常軌を逸して巨乳とかデブとかのエロ絵、最近多いですよね。
「萌え絵」というのは言ってみれば、三次元の女という生き物とは全く別個な価値を持つ存在を、二次元世界に新たに作り上げたものなのですが、「三流劇画」はあくまで「参照すべき三次元の女体」を想起させる触媒として、そこにある。おそらく「萌えオタ」は「萌え絵」に直接に欲望を抱いているが、三流劇画的な描画法で描かれた絵は、直接に欲望の対象となってはいない。バランスを逸した極端な「巨乳」を描くことで、「参照すべき三次元の巨乳」を「想起」させるというのが、その方法論だと思われます。前回、谷岡ヤスジの名前を挙げましたが、言ってみればそれとそれほど変わらないのです。
絵のタッチだけでなく描画法についても同じことが言えましょう。近年の流行である「アヘ顔」、「ひょっとこフェラ」(もう、こう書くだけで脳が穢れると感じるほどに、大嫌いなのですが)も、おそらくオタク側から出てきた表現ではない。「萌え絵」を読み解くだけのリテラシーがない(細かい表情の違いなどわからない)者に向けた、過剰で極端なだけの表現なのではないかと思います。
「絵だけは一応、萌え絵」だけどストーリーが、世界観がもう勘弁、といった作品も増えています。やれ和服を着た未亡人だの中年男性とパパ活をやっている女子高生だの、もう頼むので許してくれとしか*2。
いえ、逆に言えば「和服の未亡人」の登場する「萌え」作品もあり得るとは思います。例えば『めぞん一刻』。高橋留美子が「萌え」かとなると微妙ですが、ともあれオタク文化黎明期に登場したこの作品は、言わば「未亡人下宿」という古典的ポルノ的設定のパロディとも言えました。そうした従来の性愛感から一歩引いてみせる振る舞いにこそ「萌え」が宿るのであって、そうした感性が、上に挙げたような作品にはない。要するにそうしたモノを作っている連中は、絵師だけ萌え絵師だが、他の、例えばシナリオなどを作っている連中のセンスは非オタなわけです。
いえ、今年の初め、本当にちょっとだけお手伝いしたゲームは最初からオタクネタ全開のものだったので、こっちも久し振りにそうしたネタをぶっこむことができて、本当に書いていてほっとしました。願わくば、そういう作品ばかり書いて食っていければ言うことはないんですが……。
・萌え・イズ・デッド
――そう、今のそうしたエロゲをプレイしているのはオタクではない。上に「ユーザーがどんな人なのかさっぱりわからない」と書きましたが、やっぱり年寄りなんじゃないでしょうかね*3。頼むからAVを観ててくれ……と思うのですが、やっぱりかつては三流劇画が好きだったような人がやってるんでしょうね。
以上はかなり憶測を含むし、「萌えの衰退」の原因はただ「三流劇画の侵略」に一元化できるものではないでしょうが、ここでポイントをまとめてみましょう。
一つは、萌えの先代、つまり三流劇画が復権してきたこと。
二つ目は、三流劇画とはカウンターカルチャーであるということ。
そう考えるならば、今の状況は「サブカルの逆襲」とまとめられるのではないでしょうか。
もう少し話を広げれば、これにはもう一つ、「左派的価値観」が浸透することで、オタクが殺された、という側面もあるように思います。
『ネットハイ』動画で述べましたがサブカル、ないし左派寄りのオタク業界人はとにもかくにもオタクに対して「閉鎖的だ、閉鎖的だ」と病人のうわ言のように繰り返していました*4。
彼らはオタクたちが自分たちの政治理念、価値観を受け継ぎ、SEALD'Sのようになることを望んでいるのです。
閉鎖的でけしからんというお説教は、その意味でオタク界のトランプが作った塀の破壊運動でした。彼らはオタクのA.T.フィールドを打ち破ってやったぞとドヤ顔でしたが、結果、『ドラえもん』も『エヴァ』もマイルドヤンキー向けになり、萌えは破壊されることになった*5。
『嫌オタク流』はおそらく、『電波男』のヒットに脅威を感じて出された本でした。『電波男』は「萌え」を愛を復興するための表現である、と説く本であり、今や女性ジェンダーを素直に描いているのが萌え表現くらいしかないことを考えてみれば、まさに正鵠を射ていたという他はありません。
しかし、暴力と憎悪を標榜する左派は、絶対に「萌え」を許すことができなかった。
フェミやサブカルがオタクを叩いたのはそれ故であり、そして事実、彼ら彼女らの願いは叶いつつある。
まさに今、彼ら彼女らは勝利しつつあるのです。
*5 『ドラえもん』については「『STAND BY ME ドラえもん2』――ドラえもん謀殺!そして男性否定妄想へ」を参照。『エヴァ』については動画「ミソジニーとミサンドリー――呉座氏に差別されたと主張するフェミが心酔する男性根絶協会とは?」でちょっとだけ触れました。
――さて、というわけで以下は「脚注」というテイでの、気に入らん表現への罵倒大会となります。
興味のある方は(https://note.com/hyodoshinji/n/n93047f50325f#KLqkA)へ飛んで、課金していただければご覧になれます。
今も萌えキャラは街に溢れていますが、しかしエロに関しては結構おかしなことになっているのではないでしょうか……。
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