どうも、ちょっと遅れていたようですが、『Daily WiLL Online』様の新たな記事、三月一日には掲載されるようです。どうぞチェック、及び拡散をお願いいたします。
さて、一週休んでいた稲田豊史師匠のウソによるドラdisり本レビューの採録です。
前々回は稲田師匠のおぞましいまでののび太への憎悪を、前回はおぞましいまでのジャイ子萌えを見ていただきました。
ページ数で言えば、それでようやっと本書の半分を消化した……という感じなのですが、実のところこれ以降、目を覆わんばかりのヘイトスピーチはなりを潜めます。
例えば第七章では「ひみつ道具」がテーマに選ばれています。
が、書かれるのは「かがみでコマーシャル」(てんコミ14巻)が未来を予見していたとか何とか、薄っぺらなハナシ。「鏡をネットに置き換えると」デジタルサイネージを先取りしていた、みたいなことを言ってるんですが、「鏡をテレビに置き換えると」当時からあったテレビCMになるだけなのだから(そもそもテレビCMもデジタルサイネージの一種なんですから)、そんな誉め方をされてもなあ、としか言いようがありません。
十章では「Yロウ作戦」(てんコミ11巻)で田中角栄の「記憶にない!」がもじられているとか、スネ夫の自慢がフェイスブックでのリア充自慢の先取りだ云々とか、これもまあ、素人が1000文字三百円で書かされているような、ネット記事レベルのハナシが続きます。もっとも「いやになったらヒューズをとばせ」(てんコミ33巻)を評して繊細やくざについて言及がある(言葉そのものが出てくるわけではない)のはちょっと面白かったです。
補章1では(『ドラえもん』と一切、関係のない)蘊蓄がダラダラ続きますが、驚くべきは『スパイダーマン』のセリフの引用。
忘れるな。大いなる力には大いなる責任が伴う。
これ、『エスパー魔美』の高畑君の
大きな力をもつということは、同時に大きな責任をおうことにもなるんだ。
「どこかでだれかが」(てんコミ2巻)
を引用すべきところでしょう。
(あ、師匠が知らないかも知れないので書いておきますが、『エスパー魔美』というのは藤子・F・不二雄の『ドラえもん』とはまた別な漫画の題名です。面白いのでよろしければご一読を)
八、九章は大長編(劇場版『ドラえもん』の原作漫画)についての評が書かれます。
大長編の後期について、親の敵のごとくに舌鋒極めて罵る師匠ですが、確かに後期作品が凡作であること自体は、遺憾ながら否定しにくい。
しかしここで師匠は「藤子Fは作家的野心を後退させ」「教える側」に回ったとのだと、実に奇怪な説を立てるのです。大長編が古典的名作に材を採っていることを根拠にしているようなのですが(例えば『宇宙開拓史』は明らかに西部劇です)、「だから、教える側に回ったのだ」というリクツがさっぱりわかりません。どうも、「伝統芸能的な作品の継承を志向している」とでもいった意味あいで「教える」と言っているようなのですが……。
そう主張しているページの手前で、師匠はFの「いただきの勧め」という主旨の発言を引用しています。これはFが「藤子不二雄賞」の席上で若手作家に対し、(まさに「教える側」として)「元ネタをアレンジし、自分の作にしてしまう」という創作テクニックを明かしたものなのですが、その「いただき」を、師匠は「パクリ」にでも近いような意味あいで解釈していて、それで上のような珍説の構築に至ったようです。
どうも師匠は、創作の本質そのものが「いただき」であることを、ご存知でないらしい。事実、最終章でもFは「海外SFを翻案」(274p)したのだなどと不当に過小な評価を下している箇所があります。
そもそも後期作だけならばまだしも、『のび太の恐竜』以降を「現役時代の貯金」で作られたとまで言っているのだから尋常ではありません。1980年、既にF先生が現役でなかったとは知りませんでした。師匠はFを葬りたくて葬りたくてならないのでしょう。
補章2では、相も変わらずのび太をdisります。
いっぽう、年1回の大長編で人外の魔境を大冒険し、勇気を奮い立たせ、責任感や自立心が強まり、仲間たちとの友情を深めたのび太も、翌月からの連載ではまたダメ人間に戻っている。無成長の無反省、それがのび太系男子だ。
(194p)
むろん、ぼくが以前指摘した*1『大長編ドラえもん』は『ドラえもん』の続編とでも称すべき位置づけにある、という構造については、理解が及んでいらっしゃらないのでしょう。ことに後期の作ではのび太の独立、ドラえもんとの別れが意識されているということは前々回にも述べた通りです。
そう、劇場版に限らず、『ドラえもん』は実のところ「さようなら、ドラえもん」が描かれて以降、ドラえもんとの「別れ」を予め内包してしまった不思議な作品であると言えます。時折、のび太は未来の自分に会いますが、その未来ののび太はドラえもんと生活を共にしている様子がない。恐らくですが中学に上がる頃に(まさに作品が掲載されている学年誌の購読を止める頃に)ドラえもんは未来の世界に帰ってしまうのだろう……との予感を何とはなしに内包しつつ、物語は進んでいると言えます。師匠の自己改革ナシ、果報は寝て待ての考えだとの本作に対する評が、根源的に間違っていることは明らかです*2。
*1 源静香は野比のび太と結婚するしかなかったのか
*2 ただ、同時に、例えば「45年後……」(ドラえもんプラス5巻)では初老ののび太がドラえもんと再会し、「久し振り」と、(「久し振り」にもかかわらず)感激するでもなくフランクに接しています。恐らく二人は人生の端々で再会していると思われ、これはまた、のび太が時々、物故したおばあちゃんにタイムマシンで会いに行く感覚に近い。その意味で、本作の中に「時間の超越」、言い換えれば「別れの、死の忌避」というモチーフがあるということはできましょう。もっともそれのどこが悪いのか、ぼくにはさっぱりわかりませんが。
しかし、更に、もっと言うならば『オバケのQ太郎』は新旧ともオバQが正ちゃんの下を去ることで最終回を迎えますし、『パーマン』は更なるヒーローとなるためスーパー星へと留学(!)します。『キテレツ大百科』最終回では大百科が失われますし、『ウメ星デンカ』も王国を再建して話が終わります。つまり、Fが「終わらない世界」を節度なく希求していたかとなるとそんなことはないのであり、『ドラえもん』は例外的に「商業的に終われなくなってしまった」作品であるがために(或いはまた、「別れ」を忌避するのは80年代以降のエンターテイメント全般の流れであり)、現状のようなイメージを持っているだけ、とも言えるわけです。
十三章ではFの他作品について述べられるのですが、『21エモン』と『ウメ星デンカ』を絶賛、殊に後者を最高傑作としているのは「わかっている」感が強く、ここは好印象でした。ここへ来て本書を肯定するのはイヤなのですが、『ウメ星デンカ』は傑作ながらマニア間の人気も今一な不遇の作品で、それを評価している点については正直、嬉しいと感じました。
しかし、『モジャ公』についても惜しみなく絶賛するのはわかるのですが、「SF性は『21エモン』の比ではない」などと評するのはどうなんでしょう。『エモン』を不当に低く見すぎだと思います。
ただ、この辺りの内容はまあ、妥当だと思うんですが、読み進めるとこれら「マイナー作」を持ち上げた挙げ句、案の定『ドラえもん』をそれらを薄めたモノ、と言い出します。「そら来た」です。
師匠は「『ドラえもん』は決して冒険作や野心作ではない」、「偉大なる縮小再生産の産物」と評します。「薄められた原液としてのドラえもん」などという節タイトルまであります。過去作に比べ、ことさら変わった点はない、という認識のようなのですが(そしてまた、メジャー作よりもマイナー作を持ち上げたいというマニア心理は大変よくわかるのですが)、ここにこそ師匠の批評眼のなさが現れています。
以前からぼくは、ブログの(或いはツイートの)端々で指摘してきました。
『ドラえもん』は『ガンダム』であると。
どれだけ語ったことがあるかは忘れましたが、主旨をでき得る限り短くまとめてみれば、以下のようなことです。
『ドラえもん』の主人公はのび太である。
それは『オバケのQ太郎』の主役があくまでオバQであり、正ちゃんの「イド(意志)」としての役割を担っているのとは全く、対照的です。
ドラえもんは言わばのび太の「超自我(知性)」ですが、そうした比喩を使う前にまず、のび太が確立した「エゴ(自己)」を持つそれなりに大人として描かれていること、だからこそストーリーは最初から、「のび太の将来」を見据えて始まっているわけなのです。
(本作でオバQ=イドの役割を果たすのはひみつ道具であり、それこそが真の主役、といった考え方も可能でしょう)
72年に放映を開始したロボット活劇『マジンガーZ』。これは奇しくも商業的に失敗した『ドラえもん』の旧アニメ*3の裏番組でした。
そして1979年、そろそろ80年代が始まろうという時に、そのある種パロディとも言うべき作品が放映開始されました。『ガンダム』です。ここでは主人公にある程度複雑な「内面」が与えられ、自らの戦う宿命に葛藤するドラマが描かれたのです。そして大山のぶ代版の『ドラえもん』が始まり、大ブレイクしたのもまた、同じ年でした。
前にも書いたように『オバQ』の正ちゃんは、劣等生ではあれ、ことさらにいじめられっ子でもなく、ことさらに弱い存在としては描かれませんでしたが、のび太は明らかに弱い存在として描かれました。
『ガンダム』がそうであったように、『ドラえもん』は80年代の少年の、「私小説」だったのです。
だから、のび太は将来の幸福な結婚を夢想したのです。
スネ夫が持ち物を自慢し、のび太がドラえもんに泣きつくのが定番であることからもわかるように、豊かな社会が到来しつつあった時期に描かれた本作では、男の子が趣味を楽しむことが一つのテーマとして描かれました(考えると大人の『ドラえもん』評では必ず最先端オタクとも言うべき趣味人、スネ吉兄さんについて饒舌に語られるのがお約束なのですが、本作ではその名前すらも挙がらないのは、何とも示唆的です)。
単行本では描き換えられていますが、のび太のパパは本来、会社の社長でした。本来の一話は「将来ののび太が、それをつぶしてしまう」ことが示唆されていたのです。豊かさの中、弱さを持った男の子がどう生きて行くかこそが、『ドラえもん』のテーマでした。
そう、師匠がここまで『ドラえもん』に執拗な攻撃の手を加える理由はもはや、明らかです。
「男性の内面」を何よりも深く憎む「フェミニズムの使徒」たちにとって、『ドラえもん』はあってはならない存在だったのです。
豊かな日本は草食系男子を、オタクを生み出しました。
オタクは女の子との恋愛を希求する、繊細な内面を持った存在でした。
その第一号として、のび太は描かれました。
しかし師匠はその存在を、認めることができない。
驚いたことに、師匠は度々、無邪気にも
『ドラえもん』の準主役、否、考え方によっては主役と呼んでも差し支えないのが、野比のび太である。
(30p)
が、それにしてものび太という男、児童向けマンガに登場する準主人公(見方によっては主人公)にしては、人としてのNG度が高すぎやしないだろうか。
(51p)
などと断言しています。
師匠がこの世で一番『ドラえもん』を理解していない人物であることを、誰の目にも明らかにしている名文です。『ドラえもん』の主役がのび太であることは、ファンの間では常識であり、覆しようのないことだと思うのですが。
そしてのび太を惨殺した彼らの狂人が、じゃなかった凶刃が次にどこへ向くのか。
それはもう、あまりにも自明です。
*3 この事実からもわかるように、『ドラえもん』は連載当初はさほどのヒット作ではありませんでした。この旧アニメではアニメ側のスタッフが「下町アニメ」的な貧乏くささ、ハングリー精神を作中に盛り込み、結果、番組は短命に終わっています。
しかし80年代の直前に開始された新アニメを契機に、80年代は一大藤子不二雄ブームが巻き起こったのです。
最終章である十四章では、またしてものび太の人格否定が開始されます。
ここで師匠は『ドラえもん』、否、Fのモチーフは「世界の創造」と「運命の改変」であると指摘します。
もちろんそれは、正しい。前者はミニ地球を作る「地球製造法」(てんコミ5巻)や劇場版『創世日記』などに、後者は『ドラえもん』全体のテーマがそうであるばかりか、「人生やりなおし機」(てんコミ15巻)、「タマシイム・マシン」(てんコミ13巻)などに、またそれぞれ『ドラ』以外のFの諸作にも広範に見出せるモチーフです。
しかしそれらが師匠にかかってはFという未成熟な人格を持った人間の、幼児的な万能感故の悪しき心性とされてしまうのです。
師匠は米沢嘉博氏の『藤子不二雄論 FとAの方程式』を恣意的に引用し、
(引用者註・Fが求め、構築したのは米沢によれば)「自らの住みやすい世界、今あるままの自分でいられる世界」ときた。なるほど「世界創造欲」が生じるには十分の、実に子供っぽいメンタリティだ。
(284p)
と泣き叫びます。
そんな不道徳な、子供の教育に悪い、唾棄すべき作品が親御さんもニッコリの国民的コンテンツになってしまっている現状を、師匠は徹底的に弾劾します。
また、一応毎回のオチとして、のび太が便利な道具を扱いきれずに痛い目を見るため、作品が「教訓的側面を内包している」と言いくるめることも可能である。(278p)
しかしそれはあくまで言い訳にすぎない。劇場版でののび太の英雄ぶりは、子供といっしょに見る親を騙す機能があるのだとまで、師匠は言い募ります。
授業参観の子供たちの態度を、いつもの態度だと錯覚するわけである。
(279p)
ここで師匠は、『フォレストガンプ』における「人生はチョコレートの箱」との言葉を持ち出します。甘ったるい、非現実的な言葉に酔う『フォレストガンプ』ファンは『ドラえもん』ファン同様のクソ野郎である、と言いたいご様子です。
しかし、この「チョコレートの箱」には「与えられたものだからしょうがない」とでも言うべきある種の諦観があるのに対し、『ドラえもん』はそうではない、というのが師匠の言い分なのです。
師匠は「運命の改変」というテーマを「チョコレートの箱を何度も取り替える行為」であると解釈します。その関心は「捨てられたチョコレートの箱」、即ちジャイ子の方に向かっているように見えます。
ここで師匠はFの晩年の成人向け作品『未来の想い出』と『ドラえもん』との類似性について言及します。これは自伝的作品であると同時に、「歴史改変モノ」。主人公の中年漫画家が若い頃の自分に戻り、歴史を変え、悪妻との結婚を回避、青春時代に好きだった女性との結婚を成就させる物語で、丸っきり大人版『ドラえもん』。
恐らく女性を「とりかえっこ」するという思想が、師匠には女性差別に見え、許すことができないのでしょう。が、一方では「ジャイ子がむしろキャリア志向になったこと」をムリからに賞揚し、「いや、それでも別ないい男を捕まえたこと」を隠蔽しているのだから、主張に論理的整合性があるとはとても思えません。
「世界の創造」は実のところ、「創作者」ならば誰でもが持っている衝動であろうということは、さすがの師匠も気がつかないわけにはいかなかったご様子で、言及なさっているのですが、ならば「運命の改変」もまた、ということにも気づいていただきたかったところです。
北村薫の言葉で「小説が書かれ読まれるのは、人生がただ一度であることへの抗議からだと思います。」というものがあります*4。それは結局、そもそもフィクションそれ自体が、最初から「弱い者」のためにあったということをも、意味しているのでしょう。
そして、それでもそれがあくまで許せないのであれば小説など含め、あらゆるフィクションを破壊するしか手がないし、事実、師匠のグルの目的はそこにあるとしか、言いようがないのです。
Fチルドレンたるのび太系男子は、今日もせっせとチョコレートの箱を開け続ける。いつかきっと、すべてが「今よりも良くなる」と信じて。
(295p)
あとがきを除くと、上が本書の最後の文章です。
本書は最後の最後までのび太を、『ドラえもん』ファンを、藤子・F・不二雄を憎み、呪い、罵り、誹り、蔑み、嘲り、嬲りものにして終わります。
繰り返した通り、『ドラえもん』は80年代の豊かさの中、爆発的なヒットを飛ばした作品です。
しかしドラえもん世代、師匠の言う「のび太系男子」は成人後、日本の衰退を体験し、目下のところ、ロスジェネと呼ばれ、「こんなはずではなかったのに」と思わざるを得ない日常を送っています。
そうした弱い人々を殺すため、本書は書かれました。
本書の目のくらむようなヘイトスピーチを読み続けていて、ぼくの脳裏にはふと、『嫌オタク流』のことが浮かび上がりました。
内容については詳述する余裕がありませんが、ここではオタクを心の底より憎む師匠のお友だちが集い、師匠ののび太に対するものに勝るとも劣らない、オタクに対する汚言が繰り返されています。しかし彼らは一体全体どうしたことか、薄汚いオタクから高潔なる韓国人、障害者、女性、黒人を守る正義の騎士であると、自己同定をなさっているご様子(全オタクが上のマイノリティたちを差別しきっているということは、彼らにとっては疑うこともまかりならぬ真理であるようです)。
それは丁度、師匠が自らを、薄汚いのび太を叩きつぶす正義の味方だと信じ切っていることと、ホームレスを襲撃するDQNが街の浄化をしているのだと信じ切っていることと、「完全に一致」しています。
そして……彼らだけが何らかの病気に罹患しているのかと思いきや、ぼくが驚いたのはぼくの比較的身近にいる人たちも『嫌オタク流』に疑問を抱いた様子がなかった、ということです。正常な感覚を持った人間であれば眉をしかめるであろう彼らの汚いもの言いを、ごく普通に「笑った」などと感想を漏らしていたことです。仮に、彼らの文章の「オタク」を「韓国人」なり「腐女子」なりに入れ替えたら、彼らは火が着いたように泣きじゃくるであろうに。つまり、彼らには主張の正否以前に、自分たちがあまりにも度を超した汚らしい物言いをしている/受け容れていることについての自覚がどうも、一切、ないらしいのです。
そして……そうした人たちの何人かは、空想的非現実的な「ホモ崇拝者」でもあります。
……本書から離れたことをくどくど書いているように思われるかも知れませんが、そうではありません。
要するに、そういうこと、だったのです。
恐らく、師匠は自身が自明で高邁な「正義」に属していると信じ切っているがため、自分がいかに下劣な書を著したかについての自覚が全くない。
だから恐らく、理解しにくいことですが、仮に師匠がぼくが再三書いた「のび太への憎悪」、「弱者男性への罵倒」といった箇所を読んだら、「そんなこと書いてないのに」と真顔で言うのではないでしょうか。
これは当然、「のび太」を「オタク」と読み替え、『嫌オタク流』の著者、愛読者にぶつけても同じでしょうし、「女性の味方」に「ホモの味方」「障害者の味方」を代入しても同じことです。
ことさらに自らを人権派だと称する人々の中には結局、(本人には自覚されない)おぞましい憎悪が隠れている。彼らの「正義」はただそうした自らの醜い心性を見まいとする自己欺瞞のためだけに、最初からあった。
さらに、大変に残念なことなのですが、いつも書く表現を使うならば本書は「フェミニズムを正しいと仮定するならば」正しい。そしてこの社会はフェミニズムを受け容れているのです。でなければ、こんな書籍が堂々と出版されることなど、考えられないでしょう。
ぼくたちは、フェミニスト様に全てを捧げ、死んでいく以外に、採るべき道は残されてはいないのです。
*4 我ながらこんな格調の高い言葉を知っていることが不思議だったのですが、調べるとKEYのゲーム『リトルバスターズ!』経由で知ったことが判明しました。
もっとも『キャンディ・キャンディ』のテリィも「芝居とはあらゆる人生を演じることのできる一種の魔法」みたいなことを言ってましたし、近いことはあちこちで言われているかと思いますが。