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どうも、前回うpした動画はご覧いただけたでしょうか。
そこでいくつかご紹介した書籍は、既に当ブロマガでレビューをしています。
というわけでここしばらくは、そんな関連記事の再掲載でつないでいこうかと。
まずは金田淳子、澁谷知美両師匠の記事です。
この『現代思想 男性学の現在』については、何と(その4)までありまして、これの他はそれぞれ、(その1)、(その2)、(その4)といった具合なので、ご興味がありましたら、そちらの方もどうぞ。 では、そういうことで……。
* * *
前回、(その1)を戦闘員に、(その2)を怪人に例え、そして今回は大幹部の文章をご紹介すると予告しました。
しかし考えれば、上の比喩は「一般信者」「教祖」「ご神体」と言い換えた方がいいかもしれません。(その1)でご紹介したのは「シスヘテロ男性」の文章、すなわち「一般信者」であり、彼ら彼女らの「組織」では最下層。いえ、そもそも「男性学」自体が「組織」への勧誘のための『エヴァ』の上映会のようなものでした。
そして(その2)では「ガイジン」や「トランス」様についての文章をご紹介しました。彼らは男性ではあれ、階級が上の人々でした。
今回は彼らがさらに仰ぎ見ている「ご神体」をご紹介します。
因みに今回、この『現代思想 男性学の現在』という一冊の本を指す場合は「本特集」、それぞれの記事を指す時は「本稿」、そしてこのブログ記事は「本エントリ」と表現することで区別しております。
また、男性学の研究家を男性学者と書くと「男性の学者」を指しているみたいで紛らわしいので、「男性学」者と表記します。
○澁谷知美 金田淳子 新たなる男性身体の〈開発〉のために
――あ、もうタイトルだけでおなか一杯っス。
お名前を見ただけでお察しの二人組の座談会。とはいえ、表紙を見ても何だかメインコンテンツみたいな扱いですし、ここは多少、深く突っ込んでいきましょう。
その前にちょっと。
「男性学」の世界では「男は感情から疎外された存在であり、そこを解放すべき」といったテンプレが語られ、ぼくもそれ自体は賛成だ、といったことは何度も(その1、その2でも)語ってきました。それと同時に「男は身体性からも阻害された存在であり、そこを解放すべき」といったテンプレもあり、ぼくはそれにも賛成します。これらは言うまでもなく、拙著における「男/女は三人称/一人称的存在だ」という指摘とぴたりと重なるものですね。が、「男性学」者たちのそれは口先ばかりのものであり、信用ならんということは(その2)のVtuberについて述べた論文を読んでも明らかでしょう。
タイトルからもわかる通り本稿もまた、この後者のテンプレを前提したロジックが展開されるわけですが、さて、どうなりますやら……。
澁谷 なぜ男が快楽を与える側であることが前提になっているのか、ということですね。
金田 そうです。私はそのアホさ加減への憤りからジェンダー研究を始めたところもあるのですけど、とはいえ本当にアホが描いているわけではないでしょうし、(中略)二〇世紀の初めごろには、セックスにおいて男がリードすべきだという盲信に、身体的に根拠があるのだということを医者や知識人たちが大真面目に言っていたわけですよね。
(163p)
師匠たちは青春時代をバブル期に過ごしたのではないでしょうか。
ぼくがいつも言うように、当時は雑誌やテレビで「女が強い」「女はセックスにおいても能動的になりつつある」と病人のうわごとのように繰り返されていました。そしてその根拠としてトレンディドラマの女性のセリフが、幾度も幾度も幾度も幾度もびっしりと手垢がついたまま振り回されていた、ということも、何度か指摘していますね。この頃のムードって、今となってはお伝えすることも難しいのですが、ともあれ両師匠の上のようなやり取りが、当時は滑稽ではなかったのです。
しかし今となっては、かなりの違和感のある物言いなのではないでしょうか。女性は婚期を逃し、婚活に血道をあげるのみ。当時の論調では今頃、男の子はみんな可愛らしくなって女性に主夫として養われてそうな勢いだったんですが、ヘンですねえ。
これ、事情は欧米でも同じようです。ぼくが時々言及する『正しいオトコのやり方』はアメリカの男性解放運動初期の名著なのですが、ここに収められているフレドリック・ヘイワード「「男の子」は「男」に」では、コンパで男子生徒に女子生徒への働きかけを禁じてみた、という実験が述べられています。そこでアプローチしてきた女子生徒は一人もいなかったという結果を得て、「これでまた一つの神話が死んだ。(195p)」と痛烈に締めくくられています(ちなみに、この実験自体がいつのことか判然としませんが、原著が出たのは1985年のことなので、その頃だと思われます)。
もう一つ、両師匠を見ていていたたまれないのは、彼女らが腐女子であり(あ、澁谷師匠は違うのかな)、上のような文脈でBLを持ち出し、ドヤっていること。
ぼくはキホン、腐女子の悪口は言いたくないのですが、それでも腐女子がモテる女か、能動性、男性性を獲得した女かとなると、それは……と言わざるを得ない。しかしそこについて、両師匠は驚くほどに屈託がないのです。
2009年、「草食系男子」という言葉が流行っていた頃、便乗本で『肉食系女子の恋愛学』とかいう本が出ました。著者は桜木ピロコ師匠といういかにもな女性ライター。師匠はそこで(当然、当時としても古すぎるバブルな強い女性像が語られているのですが、その一端として)BLを紹介し、「腐女子たちは男たちを性的消費の対象にしている。女が貪欲に、肉食になっているのだ」とドヤっていました。が、腐女子というものの実態を知るぼくたちから見ると、「おいおい」と言わずにはおれない。腐女子は「私は責めに感情移入しているのだ」と自称する傾向にありますが、それも虚栄心からの嘘であろうことを、ぼくたちは直感的に知っているのですから。
また、ピロコ師匠の本はまだそれほど腐女子という概念が人口に膾炙してない時期に、一般ピープルに向けて、騙し通せるだろうと踏んでその話題を持ち出してきていたのに対し、金田澁谷両師匠は今の時期に、当事者でありながら臆せず振り回すのだから、見ていてはらはらします。両師匠は「男の身体に興味津々の肉食系女子」とでもいった「キャラ付け」で座談会を行っていますが、上に書いたように腐女子のマジョリティは決してそうではない(し、そのことはオタク男子にはバレてしまっている)のですから。
いくら何でも平成も終わろうという世の中でいまだ「強い女」像を、しかも一番演じちゃいけない人たちが演じているという場面を目撃して、何だか「映画本編の前にニュース映像を流している映画館がいまだある」と知った時のような驚愕を覚えずにはいられないわけです。
――ちょっと、解説が必要かも知れません。
「果たして腐女子は、男の肉体に欲望を抱く、能動的なセクシュアリティの主か?」。
「BLというテキスト」を根拠に、それを肯定するような論調が一定、ある。しかし「腐女子というナマモノ」を見てみると、それは違うんじゃないかと考えざるを得ない。
ぼくの知りあいの腐女子で、オッサンキャラにメイド服を着せるのが好きなヤツがいました。田亀源五郎先生……ほどリアルな絵を描くわけではないけれども、まあ、感じとしてはそんなのを連想していただいて結構です。しかし、では、彼女は田亀的なキャラの肉体性に「欲情」していたのかとなると、それは十中八九、そうではない。オッサンにメイド服を着せる行為自体に「男の肉体性の滑稽さを笑う」という目的が秘められていることは、否定できません。何しろ、その腐女子は一方で女性のヌードを描き、「男の裸より女の裸を描く方が楽しい」とも言っていたのですから。
恐らくですが、オタク男子はかなりの高い比率でこれに近しい見聞をしているのでは、とぼくは思います。
言うまでもなく腐女子はシスヘテロ女性であり、男と女で、美しいのは女の肉体だと考えている。男の娘などを例に挙げるまでもなく、二次元では「女性より美しい男性」の描画も容易ですが、それはあくまで「女性性をまとった男性」であるからこそ。だからこそそうしたものを描く腐女子が多いわけです。ひるがえって上のオッサンのメイド服を描いている腐女子はオッサンを美しいと考えているのかとなると、そうではないことが、それに続き引用した言葉からもわかる。
金田師匠は
異性愛ものに限らないとすれば、BLには、暴力的なものもありますが、思いやりをもって向かい合うセックスを、二人の関係性の変化を絡めつつじっくり書くものが多いですよ。
(170p)
とおっしゃっていますが、何をまあ、よくぞここまでいけしゃあしゃあと、と言わずにはおれません。腐女子はレイプものが大好きだし、前にも書きましたがぼくは(美少女ものも描く)腐女子の「残酷なネタも女の子で描くのは可哀想だが、男の子なら描ける」という主旨の言を複数人から耳にしています。
BLとは「全てを男に負わせる」という女性ジェンダーの行き着く果ての表現でした。もちろんフェミニストとは違い、腐女子は実際の男児への性被害についてまでは肯定しないはずですが……(リンクと本文とは一切関係がありません)。
しかし、両師匠はそんなこちらの疑念は歯牙にもかけず、男の肉体性について嬉々と語り、「男の性を消費する女」という自己イメージをあどけなく吐露し続け、はた迷惑な男性ヌードの資料画像を挿入する。
「男の乳首について語るイベント(何だそりゃ)」に来た男女から統計を取ったら「男の乳首を舐めたことのある」女、「乳首を舐められて感じた」男が七割いたとか、もう心の底からどうでもいいハナシを延々延々延々延々延々語り続ける。
これらは最初に書いた「男は身体性を取り戻すべき」とのテーゼから出発し、そのテーゼを解決する処方箋として、ドヤ顔で持ち出してきたものであるわけですが、しかし上の腐女子についての考察を踏まえると、やはり一種のポーズであるとしか思えないわけです。
金田師匠は(渡辺直美など、女性の中に太っていてもいいという価値観が生まれつつあるという事例を出して)
男性のほうも「太っていても、貧弱でも、背が低くてもいい。他人と比べなくてもいい。自分の身体は愛おしいものだ」という流れに向かうこともありえたかもしれませんね。
(173p)
ただそれよりもまずは包茎も含めて男性が自分の身体のあり方をもっと肯定できるようになればいいなと、やはり思いますね。
(179p)
などと世にもテキトーなことを垂れ流します。
繰り返しますが、ぼくは「男も身体性を取り戻せ」との掛け声そのものは賛成します。しかし彼女らの言に、どれだけ価値があるのでしょうか。
斜陽のテレビは、ただひたすら女性に媚びるだけが生き残り戦略ですから、独身のブスやデブといった弱者女性たちに「そのままでいいんですよ」と甘言を垂れ流すコンテンツを大量に送り出しています(ぼくはあんまりテレビを見ないのですが、それでも伝わってきます)。上の「太っていてもポジティブな女像」というのもそれで、一つには「単に弱者女性への甘言」であり、もう一つは視聴者の女性に優越感を持たせるための「自分よりもブス」枠なんじゃないでしょうか(渡辺直美さん、明らかにそれっぽいですよね)。
対談は次第に、「非モテ男性論」とでも称するべきテーマへと移行していきます。
しかしなされるのはミニマリスト(できるだけモノを持たないで生きていく主義の人)を礼賛するだけの、お気楽なもの。そう、もうぼくが無限回数繰り返している、フレンチとウナギを食いながらの「お前らは牛丼食っとけ」論ですね。
澁谷師匠は上野千鶴子師匠の「マスターベーションをしながら死んでいただければいいと思います」発言が叩かれたことが不当であるとし、
上野さんは生身の人間とセックスをしたいという欲望には「抑圧と支配の欲望」と「コミュニケーションの欲望」の二種類があって、前者にかんしては「そんなものを社会が保証してあげなければいけないという「性的弱者の権利」なんかない」と言っており、後者にかんしては「愛し愛されるためのコミュニケーション・スキルを磨いていただくしかない」というきわめて当たり前のことを言っているにすぎない
(176p)
などと平然と口にします。まさにフェミニズムが男への憎悪だけを根拠にした思想であることが明瞭に示された名文です。
確かに、「コミュニケーション・スキルを磨くしかない」は正論かもしれません。しかし両師匠はこれ以降、「男どもは自助をせず助けろ助けろとほざきみっともない(大意・176p)」と腐しますが(ではフェミが莫大な国家予算をぶんどっているのは何だ)、そもそも恋愛においてコミュニケーション・スキルが要求されるのは専ら男ですよね。それは上野師匠自身が以前に言っていたことすら、あります*1。また仮に、もし両師匠が夢想するように女性が積極的になっているのなら、そうしたバイアスはなくなっているはずなのだけれども、実際にはなくなっていない。
結局、自分たちは「女は強い、女は強い」と根拠の怪しい妄想を振り回し、しかし男女格差(女尊男卑と言っても、ぼくの嫌いな言葉ですが男性差別と言ってもいいのですが)はひたすらに無視して男の(女が強くなっていないからこそ出てきた)主張をねじ曲げ、荷を背負わせたまま、みっともない、不当な要求をしているのだとインネンをつけているだけなのです。
*1 チェリーボーイの味方・上野千鶴子の“恋愛講座”
両師匠はまた、「メディアが幸福な独身男性像を発信していない(ことが悪いのだ)」などとも言います。「四〇代以上の異性愛男性が恋人も妻もいないけれど充実した毎日を送っているというような作品(177p)」というのが全く思いつかないそうなのですが、それはフェミニズムの成果として、「必ず、女を出さなければならなくなったから」でしょう。そう、横山光輝とかその時代の漫画を見ると、本当に女は全く出てこないのが普通だったり(下手すっとBL的に、「少年」が一般的な「女性」の性役割を果たしていたり)します。そこを女性の社会進出が絶対正義なので、男性向けの漫画にも女性がいっぱい出るお約束になったと、ただそれだけのことです。昔の作品をリメイクした時、よくぶっ込まれますよね、新しい女性キャラが(一方で女性性が「相対化」され「紅一点」の図式が崩れ出したことも時々指摘していますが、冗長になるので今回は置きます)。
一方、何でも「幸福な独身女性像」を描いたコンテンツというのはいくらもあるのだそうな(176p)。まあ、女流漫画家などにはフェミが多いから、そうした女性像(何か、独身でも男を蹴落としてバリバリやってるキャリアウーマンの漫画とか)が多いのは事実でしょう。しかし、圧倒的多数は男にモテることを楽しむ漫画でしょう。藤本由香里師匠の漫画論とかもそうですが、この人たちって膨大なテキストから自分のお気に入りのものだけを取り出してさあどうだとドヤっているだけなので、何とでも言ってしまえるんですね。
結局、本稿は専ら「男を貶める」という目的のためにロジックが展開されていきますが、それを分析していくと、根拠がないのは言うまでもないとしても、「フェミニズムは結婚制度、恋愛そのものを否定することで弱者女性をも追いつめているのだ」ということがつまびらかになっていくばかりなのです。これはこれで極めてエキサイティングな対談と、言わねばなりませんがw
最近も漫画家の松山せいじさんがツイッターで「女性のひきこもり」が「家事手伝い」という名前の後ろに隠れ、可視化されていないので親の死と共に大問題になってくるだろう、との指摘をしていました。そう、女性が秘めている問題というのは一つにフェミニズムが自分にとって都合が悪い故に隠蔽し、二つ目には女性本人の虚栄心、三つ目に男性の女性への遠慮という心理が働くため、表に出てこないんですね。例えば「高齢処女」というのは「高齢童貞」よりも闇が深いと言われますが、ならば「高齢処女」の調査をお前がやれ、取材とかしろと言われても、気後れしてちょっとできませんよね。そうした事情が「女は元気でモテるので、非モテ問題など抱えていない」という耳に快い空論にすり替えられていっているのです。
フェミニストたちはそうした女性こそを救うべきだと思うのですが、まあ、それができればフェミニズムとは言えません。結婚もセックスも全否定するのがフェミなのですから。
さて、言わばミニマリズムに相対する概念としての、インセル(的なるもの)も話題に上ります。
金田 「女を手に入れることだけを考えて三〇年、四〇年生きてきたのに、いまさらそんなことを言われても取り返しがつかないんだよ!」ということ?
澁谷 そうです。(以下略)
(175p)
金田 そのことに関連して、ネットなどでよく目にする「非モテがつらい」言説などを見ていて私が思うのは、もちろん女性でも非モテがつらい、恋人がほしいと思っている人はいるのですが、それで「私を選んでくれない男のせいだ!」といって男を憎みだす人というのをほぼ一度も見たことがないんです。ところが男性の場合「俺が非モテで選ばれないのは女がわがままだからだ」と言う人がすごく目立つ。
(175p)
奇遇です。ぼくも「私を選んでくれない女のせいだ!」といって女を憎みだす人というのをほぼ一度も見たことがないんですが。
いつも繰り返している通り、これは「女は主夫など養わない、ならば女に主婦に収まってもらった方がいい」というネット世論が彼女らの目を透過したがため、情緒によるノイズが混じりこんで歪められてしまったものでしょう。
そもそもそこまで男が女にがっついてれば、男性向けの恋愛マニュアル誌って今も毎週出てますよね。一方、女性向けの結婚情報誌って驚くほどに分厚いんですが。ここからは逆説的にむしろ、「男のそういうところだけを執拗に執拗に探し出し、ガン見している被愛妄想者のストーカーぶり」が立ち現れています。「男たちが私を求めている、求めている!!」と彼女らが叫ぶ度、どっちがどっちを求めているのかが、いよいよ露になるという、フェミニストおなじみのの自爆芸です。
一方、「男を憎む女性がいない」という物言いも、当ブログをお読みのみなさんにしてみれば、失笑をもって迎える以外、手のないものかと思われます。ここ三十年来、あれだけ「いい男がいない」と女の喚き声が聞こえてきたのは幻聴だったんでしょうか。「草食系男子」という言葉からして、そうした罵倒語として解釈されることの方が、むしろ多いですよね。
要するに、「高齢処女」の話題の時に挙げた女性の虚栄心、男性の遠慮がフェミニズムを肥え太らせ、マジョリティ女性を苦しめているのです。それは「テレビのブス向けコンテンツ」を鑑みても、そしてこの両師匠の振る舞いを見ても、明らかです。
そして、彼女らの物言いとは裏腹に、ネット上ではおびただしい「男を憎む女」たちが惨憺たる有様を見せています。いえ、確かにそういう女たちは「モテないから男を許せない」とは明言せず、「女性差別」、「男の性犯罪」を批判するというテイを取っています(もちろん、それを言えば「モテないから女を許せない」と明言している男性も、先に書いたように見かけないのですが)。しかし、フェミニストのそれと同様、彼女らの糾弾する対象には非常に往々にして実態がない。ならば彼女らが本当に憎んでいるものが何かはもう、お察しなのではないでしょうか。
両師匠は「結婚したい男たち」、「女が手に入らないが故に女を憎む男たち」というトピックスについて極めて饒舌に語り続けますが、裏腹に女性の婚活ブーム、専業主婦願望についてはついぞ語ろうとしません。当たり前です、語ったら自説が崩れてしまうのですから。
こうして、前回も今回も、とにもかくにもフェミ、男性学側の主張には理がなく、一方で彼ら彼女らが理がないとしている反フェミの主張には、理がある、そして反フェミが提示している主張の根拠すら、フェミ側が隠蔽しているようにしか思えない、そんな惨状ばかりが映し出される結果になってしまいました。
しかし……彼女らの物言いは驚くほどに上から目線であることに加え、何だか自己陶酔的です。先の上野師匠の問題発言を擁護した上で、澁谷師匠は続けます。
恋愛やセックスにかんして「自分(たち)で解決せよ」と言われた際に男たちが見せるヒステリックな反応は研究に値すると思います。
(176p)
続いて金田師匠も。
たしかに「なぜ女がケアをしてくれないんだ」という不満がありそうですね。(176p)
彼女らは口では脱恋愛、脱結婚を語っているが、情緒のレベルでは、実はそうではない。
フェミニズムの本質は「性犯罪冤罪」である、そして「女災」とは「性犯罪冤罪」を広義に解釈した概念である、とはぼくが常に述べていることですが、さらに言えばこの「女災」の本質は上にも述べた「被愛妄想」です。彼女らは現実を歪めることで、「男たちに求められる」というポルノ的幻想を体感している。だからこそ彼女らは楽しそうであり、また恐らくその脳裏には「幼い、駄々っ子のような男を癒す、女神のような女性」としての自己イメージが結ばれているのではないでしょうか。それは
そうですね。私が『平成オトコ塾』の包茎の章で伝えたかったのもまさに「自分の体を愛してあげよう」ということだったんです。
(179p)
などという澁谷師匠のお言葉からも明らかです。
では、お二人は(言っていることの妥当性は置くとして)悪意のない善人なのでしょうか。
いえ、自分が悪意を持っているということの自覚ができずにいる、とでも表現するのが正しいのではないかと思われます。
澁谷師匠は包茎手術の失敗でペニスがズタズタになった男性を著作で笑いものにしている包茎手術マニア。一方金田師匠がどんな方かは、当ブログの愛読者の方はご承知の通り(リンクと本文とは一切関係がありません)。男性への悪意がないと言われても、信じろという方が無茶です。もっとも、「男性学」者たちやリベラル様たちはどういうわけかあどけなく彼女らを「女神」であると信じていらっしゃるご様子ですが。
この女神のように慈悲深いワタシという自意識、それを盲信する男性支持者、そして、しかし実際に彼ら彼女らの胸に秘められているのは悪魔のような憎悪、という三点セットは、そもそもフェミニズムの一番の特徴であり、また「終末カルト」と全く同じ構造を持っていることは、以前にも指摘しました*2。
*2 トンデモ本の世界F
――以上です。上にもちょっとありますが、渋谷師匠の著作は、男性の不幸を笑いものにする非道いもの。実は旧ブログでレビューしていたのですが(上にもそこへのリンクがあるのですが)、実はあまりにも非道い内容のため(いや、それはまあ、ウソですが)長らく閲覧禁止にされておりました。
次回はこの記事の再掲を行ってみたいと考えております。
どうぞ、お楽しみにお待ちください。
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