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少し前、白饅頭が以下のようなことを言っていました。
現代ビジネスでオタク叩くフェミニストは丸尾さんの功績によりめちゃくちゃたくさんいますが、オタク側の論客はゼロです。オタクたちよ、努力が足りない。我こそはという者、きちんとnoteやブログで文章をリリースして名を上げ、メジャーなメディアでの発言権を得るんだ。
(https://twitter.com/terrakei07/status/1277085323193798656)
何かこの人、こういうの好きですよね。すもものことも「育ててみよう」とか言ってたし。
で、この「丸尾さん」も何なのかわからんのですが、「現代ビジネス」というのは白饅頭がよく書いてる講談社のサイトであるとようやっと気づきました。ちらっと見てみるとやたらとフェミ関連の記事が多いんですよね。
本当、ぼくがどれだけ口を酸っぱくしようと、こうした大手メディアではただフェミニズムを延命させるための空疎な言い訳ばかりが繰り返され、そんな無内容な記事の量産でフェミニストたちは相も変わらず小銭を稼ぎ続ける……という状況に無力感を覚え、最近はあんまりこうした記事も読む気がしません。白饅頭の言がそれを証明していますよね、表のメディアでは結局はフェミ側の有利な立ち位置からの、事実を捻じ曲げた抗弁のみが流布されるばかりだと(反フェミの論客が白饅頭のお眼鏡に適うか、ということはまあ、別として……)。
そんなわけで白饅頭の書くものも含め、あんまり読む気にもなれず、今まであまり見てなかったのですが。
・フェミの表現規制を隠蔽することが、二人の初めての共同作業となります
さて、そんな時代の最先端を行くサイト、「現代ビジネス」で中村香住師匠「「オタク」であり「フェミニスト」でもある私が、日々感じている葛藤」という記事がバズりました。
表題からも「フェミ側からの、オタクへの懐柔策」という性質が見て取れ、また青識亜論がnoteで「返歌」を返しているという状況に興味を覚え、ぼくも重い腰を上げ、ちょっとまとめておこうかと思い立ちました。
しかし何というか、左派の人たちって、いつからか仲間内でのプロレス……というよりはじゃれあいを人様に見せ、おひねりをもらうだけが仕事になってますね。
中村師匠の言い分を簡単にまとめると、師匠はフェミニスト(でありレズビアン)であると共にオタク。いわゆる男性向けの萌え作品が好きで、その葛藤に悩んでいる。しかし、「フェミはオタク文化をつぶそうとしている」「性表現を規制しようとしている」というのはオタク側の妄想である。
まあ、耳にタコができるほどに聞き飽きた、事実の反映がほとんどない意見、略して「デタラメ」ですね。こんなので原稿料が入るのだから本当、羨ましい限りです。
ちなみに、中村師匠の「オタク」定義は「女性演者や女性キャラクターがメインとして登場するコンテンツを一般の人よりも高い熱量をもって愛好し、追いかけている人」であり、「オタク」というより「萌え」という感じがしますが、オタクvsフェミのバトルという状況下においては概ね納得のできる定義です。
(そういうわけで以下、本稿では「オタク」という言葉の代わりに、「萌え」という言葉を多用します)
これに対して青識は、今までフェミニストたちはキズナアイ、宇崎ちゃんを性差別であるとしていたではないか、それをスルーしてフェミを免罪しようとする中村師匠はアンフェアだと批判します。
これはもちろん、大変納得のいく意見です。
ここまでならぼくも、青識に諸手を挙げて賛意を示します。
(ただ、中村師匠は「フェミは法規制を望んでいない」という言い方をしており、また青識は摩訶不思議なことにそこを見事にスルーしているのですが、この辺りへのツッコミはまた次回に回しましょう)
そして青識はフェミニストのオタクへの攻撃の例として、すももの作った表を得意げに引用します。
2014年の人工知能学会の会誌を筆頭にした、「フェミにいちゃもんをつけられた表現」一覧です。
すももがこの表を作成した時にも言ったのですが、これはあまり評価できません。
というのも、これが以前の、70~90年代のフェミニストたちのミスコンや街頭ポスター、CMなどへのいちゃもんなどをスルーしているからです。その意味では、この表は「十年前までは(真の)フェミは味方だった、(ツイ)フェミがこの十年、我々を攻撃し出したのだ」という表現の自由クラスタの「偽史」に寄り添うものになっています。
まあ、この辺は確信犯で過去を隠蔽しているのではなく、単に何も知らないだけなんでしょうが、悪意を持ってみれば、「ツイフェミ」に責を負わせて本来のフェミを延命しようとしているのかな……と思えなくもありません。
(もしぼくの文章を初めてごらんになる方がいたら、勘繰りすぎだと怪訝に思われるかもしれません。しかし近年青識が「フェミニスト」を自称し始めたことからもわかるように、ぼくが表現の自由クラスタと呼ぶような人々の目的意識はただひたすら、自分たちのガールフレンドであるフェミニストたちを延命させること、ただその一点にのみ向けられていると言っても過言ではないのです。以下をお読みいただければそれはご理解いただけましょう)
青識が近年、ぬけぬけと「フェミニスト」を自称し出したのには呆れましたが、本稿においても(後に引用するように)それが邪気なく繰り返されています。
しかし一体全体どうしたわけか、彼は中村師匠を
にもかかわらず、私が当該記事を問題視しているのは、一部フェミニストによる「性的『消費』批判」を無批判に採用している点にある。
と批判します。
「性的『消費』批判」をしないフェミニストなど、彼の描いた屏風の中にしかいないと思うのですが、青識はそうでない者を「一部」だと言い張るのです。
彼はまた
そのような葛藤を私たちに植え付けてきたのは、何の根拠も脈絡もない「差別」や「性搾取」や「暴力性」をオタクコンテンツに見出してきた似非フェミニズム的言説にほかならない。
とも言います。
「女性ジェンダーの強調はまかりならぬ」との、まさにフェミニズムそのものの論調に対して、「似非」などと呼びつける様は滑稽であり、卑怯であり、愚劣です。
青識は中村師匠がツイフェミの罪状をスルーしていることをアンフェアだと糾弾しますが、自分は本来のフェミの罪状を、必死で隠蔽しているのです。
・「性的消費」「性的客体化」「性的モノ化」と三つの「性」を送りたいと思います
さて、中村師匠のもう一つの主張は、「オタクとフェミニストは両立し得る」というもの。青識はそこに諸手を挙げて絶賛の意を示し、そして先にも引用したようにしかし師匠は「萌え」を「性的消費」だと称するのでけしからん、と続けるのです。
そんなこと言ったってアナタ、「性的消費」って言葉は「萌え愛好」とほぼ同義でしょうに(萌えは架空のキャラへの愛好であり、本稿では話題をそこに絞りますが、中村師匠の定義はご丁寧にも「女性演者」として実在の女性をもそこに加えてしまっており、実写の映画女優、グラビアアイドルに対しても全く同様のことが当てはまりましょう)。
青識は中村師匠の主張を以下のようにまとめます。
① フェミニストは表現規制を要求しているのではなく、オタク表現が「性的客体化」によって女性差別に加担することを批判している。
② オタクコンテンツは女性演者または女性キャラクターを「まなざす」ものである以上、「客体化」という批判は免れがたい。
③ 消費されるために作られたものとはいえ、女性が主体的に活躍する作品は、女性の自立や連帯をエンパワメントするものともなりうる。
④ オタクコンテンツの消費に内在しうる暴力性を自戒しつつ、より「まし」な消費の仕方を考えられないだろうか。
「萌え」が「性的客体化」であるというのは(上の「性的消費」同様)「真」でしょう。
だから仮にそれが悪だというならば、「萌え」は「悪そのもの」という他はない。
しかし青識は、萌えは「女性の性的客体化(まなざされる側)」、や「女性性の消費」とは異なると言い出します。
どうも江口聡師匠によれば、「性的客体化」とは「強制性があった場合」に適用される概念なのだそうです。
そもそも「性的消費」と「性的客体化」の違いも判然としませんが、青識自身がこれらをいっしょくたに論じているので、ここではぼくもそれに準じます。
(また、厳密には江口師匠は「性的客体化」ではなく「性的モノ化」と呼んでいますが、これは翻訳が違うだけで同一の言葉です)
つまり、「性的客体化≒性的モノ化≒性的消費」であり、その本質は「そこに強制性≒手段性があること」ということにまず、なります。
ともあれ、青識が言うには萌えにはこうした(基本的には)強制性がない以上、性的消費、性的客体化とやらいう「ケチカラン表現」ではないのだということです。
また、彼は中村師匠の
その「消費」に内在しかねない暴力性については、つねに考えていなければならないとも自戒する。
しかし、「消費」自体をやめることはできないとしても、少しでも「まし」な消費の仕方を考えられないだろうか。
といった主張に批判を加えます。
性的客体化の話をしていたと思ったら、急に「暴力性」の話が出てくるのである。
これには多くの人が首をかしげたのではないだろうか。
え……?
江口師匠によれば、「性的客体化」には「強制性」が伴うのだから、それは「暴力」そのものでしょう。
もちろん、青識自身は萌えは「性的消費」でも「性的客体化」でもない、としているけれども、中村師匠はそう考えているのだから、この批判は奇妙というか、青識自身があまり師匠の考えを吞み込めていないのではと思えます。
いえ、まあ、ぼくも萌えをケチカランものと考えているわけではないので、結論だけを考えれば、ひとまず青識と同意見ではあるのですが。
しかし青識が論拠にする江口師匠の説明はマーサ・ヌスバウム師匠というフェミニストの論文を下敷きにしたもの。さらにそもそもこの「性的客体化」という言葉自体は、マッキノン師匠やドウォーキン師匠が提唱したものなのです。ヌスバウム師匠の分析がガクモンの世界で定説とされているのか、フェミニズムがそれを共有しているのか、ぼくにはよくわかりませんが(中村稿にも名前が出てくるので、それなりにメジャーではあるのでしょうが)、江口師匠の説明を見ると、
(1) 他人を道具・手段として使用する
(2) 自己決定を尊重しない
(3) 主体性・能動性を認めず常に受け身の存在と見なす
(4) 他と置き換え可能なものと見る
(5) 壊したり侵入したりしてもよいものとみなす
(6) 誰かの「所有物」であり売買可能なものであると考える
(7) 当人の感情などを尊重しない
(8) 女性をその身体やルックスに還元してしまう
(9)エロチックな写真などでは、女性は体全体を鑑賞されるだけでなく、胸や腰や脚などの特に性的な部分・パーツに分けられ、その部分だけを鑑賞される
と、随分といろいろな状況が「性的客体化」に当てはまり、そりゃ、理屈をこねればあらゆる表現は何かしら「性的客体化」に仕立て上げられるだろうなとの印象を強くします(ただしこの(8)、(9)はヌスバウム師匠が言ったことなのかどうかは今一判然としません)。
見ていくと、青識はここから恣意的にセレクトした(2)や(3)や(7)を持ち出し、そこに反していないからいいのだと強弁しているのだとわかります。
そこだけでも非道い話ですが、何より非道いのは青識が頑なに「性的客体化」という概念自体は「あるもの」として守ろうとしていること。
そんな、ドウォーキン師匠、マッキノン師匠発の概念など、一笑に伏せば済むはずなのに。
そう、以前のペド議論*の時に「ヘイト」という概念自体は頑なに守ろうとしたのと全く同じに、青識がしているのは毎度おなじみ、フェミニズムへの恭順な服従の誓い、以外の何物でもないのです。
・お色直しのため、しばし中座させていただきます
――え~と、まあ、いつものことなのですが、一回ではまとまりきりそうにありません。
今回は青識へのツッコミが主だったので、中村師匠へのツッコミもせねばならんのですが、ともあれ今回はこの辺りで……。
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