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さて、前回の青識批判の続きです。
前回採り挙げたのは、彼の文章の中でも論理矛盾の非道い箇所ではありましたが、そこからは彼が「手癖で、あまり深く考えずに、表現の自由クラスタの間で流通している物言いをテンプレのまま書き飛ばしている」ことが見て取れます。それが絶賛されているのだから、そもそも表現の自由クラスタ全体のレベルが……とも思いますが。
そこでは同時に青識がフェミニズムの呪縛から全く抜け出ることができずにいることもまた、見て取れましたが、今回はいよいよそれが、明確になっていくことでしょう。
青識フェイズ.2 エロは政治である
規制論⑦ 倫理や人道に反している
→反論 自慰行為は非人道的行為ではない
ここはどうでしょう。
まあ、何が倫理や人道に反するかとなると、もう言葉の遊びみたいなものですが、しかしそれでも「確かに倫理的ではない。しかしそれを法で禁ずるべきではない」との言い方をすべきだと、ぼくは思います。
繰り返すように「子供とのセックスは悪」であるのであれば、少女ラブドールは「悪を模したもの」なのだから、「黒人人形を(部屋でこっそりと)殴ること」くらいには悪い。
ただ、悪いから何でも禁止というわけにはいかない、と言うしかないのではないでしょうか。
これこそ、前回にもした「部屋でこそこそやってりゃいいのに、LGBTの運動を真似ようとした愚」、古典的な左派の手法によってものごとを解消しようとする限界を示しているとは言えないでしょうか。
規制論⑧ 人形を犯すものはいつか人をも犯す
→反論 ハイネの警句の趣旨はその逆だ
ここは時々ぼくがしているツッコミと同種のツイが引きあいに出されていて、驚きました。
「人形を焼く者はいずれ人間も焼く」と言いながら少女型ラブドール規制に反対している人がいてびっくりしちゃったな 「人形をレイプする者はいずれ人間もレイプする」と何が違うんだろう
― 塩丸 (@shiomaru0) May 29, 2020
(ただ上の「人形を焼く者は」は、「本を焼く者は」の間違いでしょう)
青識によると上のフレーズはハイネというおっさん発のモノらしいですが、彼は続けて、
思想信条を攻撃し、抑圧する社会では、いずれその持ち主の権利を奪い、生命をも奪うようになる。ハイネは、当時政治動乱のさなかにあったドイツにおいて、上記のような言葉を遺したのである。
とご高説賜り、
誰かの信条、思想、欲望、様々な「想い」を形にした表現物を弾圧し、他者の内心を裁こうとする社会においては、その想いの持ち主が同じ人間であり、尊重と尊厳の対象となるということが容易に忘れ去られてしまう。
と続けます。
いや……仮にAさんの「思想」を「攻撃」する者がAさん自身への「攻撃」もするようになるというのが真であれば、「フィクションにおける少女へ」のレイプを肯定する者は「少女」をもレイプするようになるというのも真になりそうなものなのですが。
青識は「その逆だ」などと言っていますが、見ていくと彼の考えは「ハイネは思想信条の自由を守ろうと言っていたオッサンなので、きっと少女型ドールの味方になってくれるに違いない」とでもいったことに過ぎないとわかります。
結局ハイネの真意は(善意で解釈するならば)「言葉には言葉をもってバトルするべきであり、そこに暴力が介入してくると一線を越えるよ」とでもいったところでしょう。
ただ、「暴力で思想を弾圧する者は、必ず人身にも危害を加える」という表現を、ハイネがホンキで言っていたのか言葉のアヤだったのかは知りませんが、いずれにせよそれが今の世に起こるということは想定しづらい。それを昔のエラい人が言ってくれていたので、嬉しくなっちゃって振り回しているにすぎません。
規制だって、法改正でなされる以上、是非は置くとして言論という手続きによってなされるわけで、それを批判するのにハイネを持ち出すこと自体が反則でしょう(仮にですが、少女型ラブドールを焼くようなパフォーマンスが行われたとしても、それは好ましいものではないとはいえ、定価で買って勝手に焼いているのであれば、それは「暴力」ではなく「そういうプレイ」であり、ハイネにご出動願うのは「少女を焼くフェチ」の人への差別ではないでしょうか)。
結局、「前者(Aさんの思想への攻撃であり、人形への性行為)と後者(Aさん本人への攻撃であり、少女への加害)は、全くつながり得ないとは言わないが、だからといって前者を規制するわけにはいかない」とでも言っておけばいいのであり、ハイネの警句は、あんまり振り回すべきものではないように思います。
兵頭フェイズ.2 エロは政治ではない
規制論⑨ ラブドール利用者が犯罪しそうで怖い
→反論 単なる恐怖感情は規制の理由にはならない
これもまあ、正論だけれども、実のところその人間の「恐怖」の感情が一番厄介であり、また、当たり前だけれども「規制」し得ないものなのです。それこそ、ロボトミー手術、ないしジェンダーフリーなどで人の心を「改造」でもしない限りは。
だからこそ「ヘイト」というフレーズを振り回してドヤることに、ぼくは強い抵抗を覚えます。
(ただし、この項自体はそれなりに抑制のある筆致で、特段に文句はありません)
しかし以下になるとだんだんとヤバくなってきて、
規制論⑩ 社会的に批判の対象となるべき
→反論 性的嗜好を「原罪」として扱うな
青識は「ペドは冷たい目を向けられるべき、だからドールを規制せよ」といった論調が多かったと憤りますが、規制はともかく、また「べき」以前の問題として、「ペドは冷たい目を向けられる」に決まっているでしょう。
「あなたの性的嗜好は罪深いものだ」
と社会的に扱われることは、どれほどその当事者を傷つけるか、考えたことがあるだろうか。
とか言ってるけど、言わなきゃバレないんじゃないでしょうか。
以下、青識はご高説賜ります。
嫌悪を受けることは仕方がないことだろう。恐怖の対象となることもやむをえないことかもしれない。
しかし、それでもなお、小児性愛という嗜好を背負ってその人々は一生を生きていかなければならない。誰をも傷つけない範囲で自らの欲求を充足させようとしている人々から、ラブドールやポルノを取り上げ、お前たちは生まれながらの罪びとだと指弾し、社会的に差別しようと主張することのどこに妥当性があるのだろうか。
上段は「ヘイト」という「感情」を許容しているようにも読めます。
が、下段は「規制」と「差別」とが雑に混同されています。
いえ、「差別」という言葉を今まであまり考えずに使ってきましたが、個人が個人を「冷たい目」で見ることは差別ではないだろうし、そう称するべきでもない(ただ、それを「べき」論として語ることは「差別だ」というのは一応、わかります)。
結局、今のところ「ペド差別」とは、ツイッター上で、それも「ツイフェミ」と思しき連中が罵倒してきているというのが全てです。
青識はそれに対して、何とかこの問題を「公的なこと、社会的なこと」だと言い立てているのです。
ペドの抱えた不遇感はホモのそれと同様、社会運動や法整備で解消できる種類のものではない。しかし青識はそこを社会問題めいた方向に持っていこうとしておかしなことになっている、個人で済ませるべきことを公的な憤りに持って行って、ヘンなことになっちゃっているとまとめることができるのです。
それはまるで、「いや、個人的なことは社会的なのだ」と強弁し、「だからジェンダーはリセットすべき」とファシズムみたいなことを言い出した、フェミニストのように。
それは、善意に解釈するならば、青識の左翼脳が、「そうしたやり方」しか知らないからであろう、となりますが、悪意を持ってみれば、「社会運動」に仕立て上げることで利を得たくて、無理筋なことをしている、とも取れます。
規制論⑪ 小児性愛は治療せよ
→反論 欲望それ自体は「病気」ではない
病気でしょ。
青識は病的に衝動が抑えられないようでないと病気ではない、と言いますが、そもそもその段階に至らないと、アメリカ精神医学会のマニュアルでも、ペドファイルと認められないんで、彼の言い分はそれを繰り返しているだけです。
青識はただ「人間の持って生まれた欲求を否定してはならぬ」という空理空論を通すために、道理を引っ込めているだけなのです。
青識フェイズ.3 ペドは悪ではない
結論:小児性愛者は「悪」ではない
この最後の項で、青識はまた左翼独特のポエムを開陳します。
規制派の視点から抜けているのは、小児性愛者という「弱者」「マイノリティ」の側に立つということだ。
決して叶えることが許されない性愛のかたちを背負いながら、しかしそのほとんどの人々が、誰かを傷つけることなく、欲望と折り合いをつけながら生きている。
ペドを真っ直ぐな目で「弱者」、「マイノリティ」と呼ぶなど、まあ、もう何か記事の執筆そのものを放り出してしまいたい衝動に駆られるような文章です。
ペドの欲望はあどけなく「ぼくは悪ではない」とうそぶけるような種類のものではないはずなのを、この人がどこまでわかっているかはなはだ疑問なのですが、しかし、とも思います。
青識にしてみれば以上のポエムはごく自然に、口から出て来るものであったのかもしれないと。
ホンの少し前まで実写の、子供を虐待している場面を記録した児童ポルノ、否、「児童虐待記録物」は「単純所持」を禁じられていませんでした。青識のアニキ分たちが必死で単純所持の違法化を食い止めようとしたものの、それは敵わず、コレクションを手放したペドも多いのではないでしょうか。
そして、以降、彼らは「キヨラかなマイノリティ」にモードチェンジした気配があります。
ペドロンダリングができて、表現の自由クラスタのトップは内心笑いがとまらないところかもしれません。
兵頭フェイズ3. ペドは悪である
いや、まあ、青識フェイズと平仄をあわせるためのものではありますが、いささか刺激的なタイトルです。しかし、残念ですが、やはり「悪」に傾きがちな存在であることは、なかなか否定できないんじゃないでしょうか。
誰しも、脳内に悪魔と天使がいて、両者は常に戦っています。
が、ペドの場合この天使がすごく強くないと、明らかな「悪」になってしまうのです。
しかし一体全体どういうわけか、青識たちはペドの中の天使はみなものすごい強い、ないしそもそも悪魔がいないという妄想を、何ら根拠なく信じ切っています。
正直、青識は「マイノリティは常に聖者だ、そうじゃなければならないから、そうなのだ」という幼稚なドグマに支配されているだけに、ぼくには見えます。拭い難い真理としてのLGBT無謬論みたいなのがまずあり、青識の中ではペドもその仲間という理屈になってしまっているのかも、という気もします。
――つまり、彼らのメンタリティは彼らのホモへの視線を考えることで、占えるのではないか……ということで、以降はもうちょっとそこを深掘りしてみましょう。
フェイズ.Y 周縁にいる者は正義である
――とまー、ここまで書いたところで、「続きはnoteでカネを払え」というのが今回のオチであります。いつも通り、概ねは既に語った通りなのですが……。
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