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 ――いや、本書のレビューはもう、前回で終えたつもりでした。
 が!
 どうしても押さえておかねばという二点について、ころっと忘れていたことに気づきまして、急遽、ちょっとだけ補足を書くことにした次第です。
 ここを初めてご覧になった方は、前々回前回記事から読み進めていただくことを推奨します。
 では杉田師匠の「フェミニズムで読み解く『ドラえもん』」最終章をお届けしましょう。

●りっぱなフェミになるぞ!

 さて、本書についてぼくもさんざん貶してしまいましたが、稲田豊史師匠の『ドラがたり』に比べれば数百倍マシだと思います。稲田師匠の上の書はまず第一に、そもそもあからさまな嘘を根拠に論考が進められていること、第二にのび太の弱さを狂ったように糾弾し、「弱者は死ね」との自らの信条を吐露するダシにするために著されていること(にもかかわらず、本人は熱心な藤子Fマニアであるかのように振る舞っていること)に問題がありました。
 それに比べれば、のび太の弱さを肯定的に評価しようとする杉田俊介師匠はよほどいいでしょう(事実、本書には非常にやんわりではあれ、稲田師匠を腐す個所もあります)。
 ただ……それでもやはり、読み進めると不自然さが顔を出してくる。
 杉田師匠は「弱さ大好き芸人」である(よく知らないけど『非モテの品格』などを見る限りそうである)。だから「弱さ芸」の一環として、『ドラえもん』評に手を染めた。
 その評はあっている部分も大いにあるものの、やはり自らの心情を吐露するダシになっているところがあるように思うのです。
『ドラえもん』第7巻の最初の話は「帰ってきたドラえもん」です。
 しかし、その次に掲載された話が何だったか、ご記憶でしょうか。
「小人ロボット」です。
 師匠はこれを、Fの意図的な配置だとします(41p)。
「小人ロボット」はのび太が寝ている(そう、本話はのび太のすぐに寝るという特技が発揮される回でもあります)間に何でもやってくれる。しかし調子に乗ったのび太が使いすぎてしまい、いざ宿題をやらせようとすると、それまで寝すぎたため、もう眠れなくなったというお話。のび太の道具依存とそれに対するしっぺ返しが描かれる、典型的な話です。ドラえもん自体がこうした「のび太を助ける小人ロボット」そのもののような存在であることも含め、ある種、スタンダードな話を「再開第二話」目に意図的に持ってきた、というのは恐らく間違いがない。
 しかし、杉田師匠の筆致は何というか、「のび太の進歩のなさ」を強調し、それを過度に肯定し、はしゃいでいる感じがどうしてもする。
 それは「さようならドラえもん」評にも表れており、ジャイアンを根性で倒すのび太のことを、師匠は「けっして男らしくもかっこよくもありません。(40p)」というのです。

 大切なのは、この短編の最初の方でパパが言ったような意味でのび太が「男らしく」ふるまうのではない、ということではないか。
(40p)


 何が何だかわかりません。
 本話でドラえもんは自分がいなくなった後ののび太が「ジャイアンやスネ夫にいじわるされても、やりかえしてやれる?」かと案じています。「喧嘩なんてするなよ」などと言っているわけではないのです。
 ジャイアンに立ち向かい、勝ったのび太は間違いなく男らしく、格好よかったのです。
 上に「パパが言ったような」とありますが、これはドラえもんが未来に帰ると知って半狂乱になるのび太に、パパが「男らしくあきらめろ」と諭したことを指しており、「男らしさ」を何よりも憎む師匠は、「Fは男らしさを肯定してはいないのだ」と強弁せずにはおれないのです。
 そしてこうした「杉田の強弁」は、「りっぱなパパになるぞ!」評においても発揮されます。

 そんな「ダメ」さの悪循環の中で少しずつ年をとっていき、くたびれていくこと。一生自分は「りっぱ」で「すばらしい」大人にはなれない、と覚悟すること。
(44p)


 いや、本話は確かに、のび太が大人の自分に会いに行って、相変わらず「ダメ」であることに失意する話ですが、しかし大人ののび太はまだあきらめておらず、「勝負はこれから」と語るのだから、これは明らかに違うでしょう。
「あの日あの時あのダルマ」も引きあいに出されます。過去の思い出の品を取り寄せるひみつ道具にハマってしまったのび太が哺乳瓶を取り出し、幼児時代を懐かしみ出す(それでミルクを飲み出す!)話。しかしひみつ道具は幼い日、亡くなる直前のおばあちゃんが自分にくれたダルマをも取り寄せてしまいます。のび太はおばあちゃんが「自分が死んでからも、ダルマのように倒れてもひとりで起き上がる子になって欲しい」と望んだことを思い出し、立ち直るというエピソードです。
 しかしのび太に立ち直って欲しくない杉田師匠は以下のように言います。

よく読みなおしてみれば、おばあちゃんのダルマのエピソードは、「あの日あの時あのダルマ」という短編の前半までの問いに対して、ちゃんとした答えにはなっていません。ドラえもんが示唆したような、未来に目を向けて、前を見て進歩すべきだ、ということをおばあちゃんは何も言っていないからです。
(46-47p)


 え……?
 言ってるんじゃないの?
 だってこれは、おばあちゃんが遺していくのび太へと、遺言のごとく言ったことなんだから。
 マニアの書いた良書、『ドラ・カルト』ではおばあちゃんは「元祖ドラえもん」と評されています。それはのび太の守護者であり、また、「いつかのび太の下を去る存在」だからでしょう。
『ドラえもん』が始まった時、既に故人であったおばあちゃんと、「あらかじめ最終回が描かれた」ために、いつかのび太の下を去ることが暗示されているドラえもんとは、まさにパラレルな存在です。
 本話は『小学六年生』三月号、つまり来月から中学生、雑誌で『ドラえもん』を読むのはこれで最後、という読者に対して描かれました。即ち、これもまた一つの『ドラえもん』の最終回であり、「さようならドラえもん」と類似したお話が、ここではおばあちゃんに仮託して描かれているのです。
(ちなみに「りっぱなパパになるぞ!」もそうなのですが、『小六』三月号に掲載される『ドラえもん』は、こうした「最終回」めいた話が描かれることが多いのです)

 さて、「杉田の強弁」にそろそろとどめを刺しましょう。
 師匠が扱っていない「いたわりロボット」というエピソードです。
 パパの茶碗を割ってしまったのび太、パパに叱られると同時にあやとりをしているのが男らしくない、と言われてしまいます。
 しょげたのび太にドラえもんが出してやった「いたわりロボット」という優しい母親風のロボットは茶碗を割ったことを「パパに新しい茶碗を使わせてあげる」善行だと言い(この、わけのわからないロジックで相手を丸め込む感覚がまさにF的です)、「男らしくない」という叱責に対しても「男らしさがそんなにいいことか、男らしさを振り回す者が戦争を起こすのだ」と言ってやります。
 いたわりロボットべったりになったのび太に、ドラえもんはタイムテレビで未来の姿を見せてやります。そこでは乞食になったのび太が「こうなれば泥棒にも火事にもあわず、幸福だ」とロボットに諭されている姿が映し出され、のび太が目覚める、というオチ。
 そう、Fが「進歩しないこと」を肯定していたか否かはもう、自明です。
 しかし師匠は、こうした作品を俎上に載せないことで、強弁を続けているのです(でも、他の話に対する扱いを見ていれば、ロボットが男らしさを否定する下りだけを恣意的に採り挙げて称揚してもよさそうな気もしますが)。

●憎くてたまらニャい

 前々回の「ポンコツ、ドラえもん」でも書いたように、師匠は「(のび太ばかりでなく)ドラえもんもまた、弱い」という奇妙な主張をしてしまっています。
 それは本作の主役がのび太であり、ドラえもんは極論すればスタンドのような存在に過ぎないのだけれども、師匠がそこを理解しないままに筆を進めたがため、また「弱さ芸人」である都合上、「主役であるドラえもんも弱い、弱くなければいけないのだ」との思い込みで論ができ上ってしまったのではないか。
 まあ、前回までのぼくの本書に対する評は、大体そんなところでした。
 が、もう一つだけ指摘しておきたいことがありました。
 師匠が「未来のデパートでセール品になったこと」をドラえもんの「弱さ」の根拠にしているのを、ぼくは「ドラえもん大辞典」という番外編を持ち出すのはどうかと批判しましたが、同様にこの番外編では例のドラえもんがネズミに耳を齧られ、ガールフレンドに笑われるエピソードも描かれています。ここではドラえもんが過去へ来たのが失恋の傷を癒すためとされ、結構重大と言えば重大なエピソードと言えるのですが、師匠は以下のようなことを言い出すのです。

 つまり、たんに耳をかじられたことだけではなく、ガールフレンドから残酷に笑われた、という体験がドラえもんにとってはトラウマになり、それがネズミに対する過剰な恐怖心になっているようなのです。ドラえもんの惚れっぽさ、メス猫やおもちゃのロボットに対する執着の奥底には、ある種の女性恐怖のような感情があるのかもしれません。
(55p)


 何だそりゃ!?
 いや、ドラえもんがメス猫、ないしおもちゃの猫に恋をする話は何度か描かれています。終盤ではガールフレンドとのデートが度々描かれます。
 が、まあ、それは(あくまで脇役でしかないドラえもんにスポットが当たった、極端に言えばジャイアンの誕生日話などに近い)まさに番外編でしょう。
 そもそもそうドラえもんが恋多きロボットだと言われても「そうかなあ」という感想しかありませんが(ただ、のび太の言によればガールフレンドの猫が大勢いるようです)、重要なのはそこではありません。
「ドラえもんは女性に惚れっぽいから、女性恐怖症なのだ」としてしまう杉田師匠の感覚は全くもって理解に苦しみます。
 いえ、当ブロマガの愛読者の方にはおわかりかもしれません。フェミニズムには「女好き=女嫌い」という謎の論法があるので、まあ、フェミニズムを前提すればそうなんだろうな、と。しかし上の文章は、上の引用を最後にぷっつりと終ってしまっているので、普通の人が読んでも単なる支離滅裂な文章になってしまっています。
 いえ、結論を言えばフェミニズムこそが支離滅裂なのですが。

 ――さて、まあ、 長くなりましたが『ドラえもん論』論はこんなところです。
 前回も近いことを言いましたが、フェミニズムはあらゆる文化を否定し、破壊するためにこの世に存在しています。
 杉田師匠は何とかフェミ様の怒りを鎮める祈祷師のような役割を担ったとはいえますが、必要なのは祈祷師ではない。
 ジャイアンに参ったと言わせるまであきらめない、のび太のような男らしさが、ぼくたちには求められているのです。