ネットマガジン『ASREAD』様でちょっと書かせていただきました。
「『君の名は。』は女の子向け『シン・ゴジラ』である。」です。
『君の名は。』が何故ここまで人気になったのか……がテーマですが、マニアックすぎて記事に組み込まなかったことを少しここに記しておけば、『君の名は。』は『トリプルファイター』である、とも言えるのでは、というのがぼくの考えです。
『トリプルファイター』は1972年に放映された変身ヒーロー番組。
三人の兄弟、グリーンファイター、レッドファイター、オレンジファイターが合体変身し、トリプルファイターとなって敵をやっつける物語ですが、各々がそれぞれ頭脳、力、そして心を司るとされます。
心を司るオレンジは紅一点であり、同時期の『魔神ハンターミツルギ』でも、また『ウルトラマンA』、『アイゼンボーグ』でも男女合体変身の際、女性が愛や心を司るのがお約束となっておりました。
「男女が協力することで初めて完全体となる」的な発想は、普遍的な感覚と言えるわけです。
『トリプル――』は低予算の10分番組であり、正直大した作品ではありません。ちょっとカネのかかった『レッドマン』レベル。
しかし、だからこそ逆説的に本作では「戦いの渦中に身を置く非人間的な運命を嘆く三兄弟」というドラマ性が(ほんの少し)生まれ、また、そのドラマ部分、言わば「人間性」は専らオレンジファイターが担当することになったのです。オレンジが戦いの中で同年代の女性と友人になるが、彼女を危険に晒さないために身を引くエピソードなどは、その好例です。
「男に心はない。悲しみ、喜び、怒り、楽しむケンリを持っているのは女性だけだ」。
『トリプル――』は、ぼくたちの社会の見事な戯画でした。
そしてまた、『君の名は。』も。
そのこと自体を、ぼくは必ずしも否定しようとは思えません。
しかしならばこそ、ぼくたちが選び取るべき道はアトミズムなどではない、と考える他はないのではないでしょうか。
ともあれご一読いただければ幸いです。
後、ちょっとオマケ。
動画をうpしました。
「ヒラリーの絵本ワロスwwww」
こちらも見ていただけると幸いです。
コメント
(著者)
こんばんは、トランプは世界を変えるのでしょうか。
リベラル的には「不当な権力に虐げられる無垢なワタシ」というストーリーをかえって正当化でき、ますます活気を取り戻す気もしますが。
しかし古谷女史って誰でしたっけ? ぼくが疎いのかも知れませんが。
『君の名は。』についてですが、う~ん、おっしゃるように瀧もまた生き生きとしたキャラとして描かれていることは否定しません。
が、やはり、少女漫画のヒーロー的だなあ、とは思います。
例えば彼は女体化してもおっぱいを繰り返し揉むだけです。男体化した三葉はトイレに行っていましたが、瀧はどうしていたのか……(お風呂禁止、と言われてそれっきりですよね)。
もちろん、「あれは三葉の見ていた夢」というのはあくまで「一側面から切り取れば、そんな味方もできなくはない」という程度の話なので、そこまでシリアスに断じているわけではないのですが。
ヒラリーは表紙が卑怯ですねw こんな可愛いのかと。
>しかし古谷女史って誰でしたっけ? ぼくが疎いのかも知れませんが。
あの「はいふり」にトチ狂ってたり「海外には『草食系男子』なんて負け犬はいねぇ」とかご高説宣ってた社会学に造詣が深い()あの女史です。苗字の漢字は違ったかもしれませんね、すいませんorz
(著者)
なるほど、顔を見て何とはなしに思い出しました。
フェミと言うよりは出羽の森って感じが強い人でしたね。
(ID:5643267)
どうもー、真冬かってくらいクソ寒いですし、遂にトランプ大統領爆誕でヒラリー女史も香山シショーも含めて自称リベラルの救い難さは国境を越えてやらで大変ですね。
めいろましゃんは古谷女史への苦言で少しは見直してたのに…(見直すとは言ってない)まぁ、欧米の白人男性への幻想を持ってないとこだけは評価点ですかね?
『君の名は。』への評文、拝読しました。
>前半部分での瀧やその友人たちが、男子三人でカフェでお茶を飲む様が描かれ、それがどうにも不自然なのです。彼らはカフェ詣でが趣味のようですが、高校生男子としてそれはどうなんだと。
>いずれにせよこのカフェの描写は違和感があり、これは非リアであろう新海監督の想像の中でのリア充男子の青春のようにも、更に意地悪な見方をすれば女子の頭の中で描かれたBL的な男子の友情のようにも見えます。もっとも、この時点の瀧の中身は三葉だったので、むしろそれはそれでいいのでしょうが。
実質的に「女の子の視点」で構成されていたというのは秀逸な指摘には同意します、そこで少し小難しい話ですがこの構図にはユング心理学におけるアーキタイプ(元型)にある「アニムス」…女性の中の男性像を軸とした「スクラップ・アンド・ビルド(シン・ゴジラより)」があるのではないかと考えます。
だからこそ>女の子を助け、娶ることで(入れ替わりも、口噛み酒を飲むことも、擬似的な婚姻と言えるでしょう)ようやく男の子は、「一人称」を許されたのです。
とある様に、してもらう側の三葉ちゃんと行動する主体を確保した瀧くんが平行してクライマックスの対面する瞬間に繋がる。
もっと踏み込んだ言い方をすればシン・ゴジラと並行して考えますと、これは男女の性原理がそれなりにいい感じに歩み寄った瞬間がエンタメ作品に現れたのではないでしょうか?
また「女の子の視点」という前提を置いても、主人公である瀧くんは相応の主体性が存在していたと考えます。
理由としては、三葉ちゃんが思い描く「理想のイケメン男子」も実際に入れ替わってみると、一人称を許されていない段階にあっては結構な齟齬が生じていたと思います。(お互いの顔に落書きしたり、互いの第一印象もそっぽ向いている)
ボキャ貧な言い方で申し訳ありませんが、曲がりなりにも生じた相手の主体性故の理想と現実のギャップです、それがなければ三葉ちゃんは瀧くんに一目惚れで終了でしたでしょうし。
しかし、それが舞台装置として存在する大災害を乗り越える事で2人は初めてイケメンと美少女の主体を確立する、どちらか一方が不公平に寄りかかる関係ではなく人間として同質ではないが対等な男女として!
それ故に最後に再会できたんだと思うと、やはり150億越えの興行収入はなかなかどうして伊達ではないと認めざるを得ないのですよ。
すいません、プロではないものですから大分酷い文章になってますが今回のASREADの文章は当該作を真夏に鑑賞し、晩秋に読んで心からよかったと思えるものでした。
しかし、これって先にヒラリー女史のワロスな絵本を見ておかないと、とんだ冷や水をぶっかけられますねww
この絵本、『家畜人ヤプー』の出来の悪い盗作なんじゃないのか…いくら個人主義志向のアメリカ人だってここまで自己愛が酷すぎたらそら嫌われますわwwエロがない上にグロとナンセンスだけとか余程のドMでもお断りですねww