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 どうも、以前にも書きましたが、またしてもブログの更新が滞っております。
 最低月一回は更新しようと思っていたのですが、先月はお知らせ以外には記事をupできませんでした。
 その代わり……というわけでもないのですが、今回はいささか長くなったので二部構成。
 明後日の今頃にでも後半をupしようと思っていますので、そちらも読んでいただけると幸いです。

 さて、「リア充」と言った時、みなさん、どんなイメージを思い浮かべるのでしょうか。
 ぼくの中のイメージは以下のような感じです。

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 上の画像、おわかりでしょうか。
 ネット上でもネタとしてよく扱われているのですが、要するに「パワーストーン」的な商品の広告に使われた画像です。何とかいう秘境でだけ採取できる秘石をお守りにすると、こういう幸運が舞い込むのだそうです。
 あやかりたいものですね
 何というか、あまりにもインパクトの強いこの写真に、初めて見た時、感銘を受けました。下世話な欲望を表に出すことに何ら屈託のない、DQN様の強い心に。
 残念ですが、「リア充」というのはそんなに品のいいものではないのです。
 例えば(場合によっては「オタクのために」と銘打ってなされる)モテ講座などで語られるのは、「とにかく女に片端から声をかけろ」「えり好みはするな」といった種類のことです。我らが上野千鶴子師匠がそれを推奨なさっていたことも、幾度も指摘していますよね。
 でもそれって、「恋愛は諦めろ」と言っているのといっしょ。
 要するに、リア充様たちはあれが「楽しい」と思えるほどに感覚の鈍磨した人たちであり、ぼくたちとはしょせん、生きる世界が違うってことです。
 まあ、この辺は本田透の本をレビューした時に語っていると思うので、多言しません(あ、レビューしたことねーや)。
「リア充爆発しろ!」とは言うものの、ぼくたちオタクとリア充の望む幸福は、異なります。ぼくたちは「リア充」の幸福ではなく、ぼくたちの幸福を追い求めねば、即ち「オタ充」を目指さねばならない。
 さて、ではその「オタ充」とは具体的には?
 はい、その答えを提示してみせたのが本作、『夏への扉』です。
 SFの大家、ロバート・A・ハインラインによる超有名な小説なので、説明は最低限に、しかしネタバレは全開で行かせていただきますので、お含み置きください。
 本作の主人公、ダンはエンジニアで、メイドロボットを発明して会社を持っています(ただし、メイドとは言っても形はルンバみたいなもので、要は自動的に判断し、動作してくれる掃除機です。原文では「Hired Girl」、旧訳では「文化女中機」、新訳では「おそうじガール」と呼称されます)。
 が、その気質は根っからの技術屋。劇中何度も経営陣と衝突します。これって喩えれば、編集者や営業とぶつかる漫画家のようなものですよね。利潤を生むことよりは、自分の製品が納得の行く形になるまで粘ることを望む、典型的なオタク気質です。ダンは親友であった共同経営者マイルズともそれでもめて、更には彼から裏切られ、会社を乗っ取られてしまいます。
 しかしそれよりも重要なのは秘書であり、婚約者であったベルの裏切り。ベルはダンを信頼させておいて裏でマイルズ側について、マイルズに有利な契約書を作り、ダンを騙してサインさせていたのです。
 発明したメイドロボの権利も、会社も、そして親友も婚約者も全てを失ったダンは、更にふたりによって「人工冬眠」で三十年後の未来へ送り込まれてしまいます。
 本作、書かれたのは1957年ですが、物語のスタート地点は1970年。つまりダンが目覚めた未来は2000年の世界でした。そこでどう見ても自分が作ったメイドロボの後継機としか思えぬ家電群を見て、複雑な感情に駆られます。自分の作った機械がここまで社会に認められ、浸透している嬉しさ。しかしそれが自分の作であると公に認めてもらえない悲しさ。事実、彼は大きくなった自分の会社へと「就職」するのですが、技術畑では三十年のタイムラグのある、使えない時代遅れの人間として扱われます。
 人のいい技術屋が、金儲けだけはうまい詐欺師に全ての手柄を持って行かれてしまう悲しさ。そう、それは丁度オタク界でも起こっていることです。
 俺は天才だ。しかしその俺の才は、誰にもわかってもらえない。
 行間から伝わるのは、ハインラインのそんな叫びでしょう。

 さて、ここで終わっていれば本作はただの鬱小説、単なるオタク業界に対する予言小説にすぎません。
 しかし本作はあくまで、エンターテイメント。
 ここからダンの巻き返しが始まります。
 ダンは未来世界で普及している家電を、ずっと自分の発明にそっくりであるといぶかしみ続けます。メイドロボの後継機があるのは当たり前だけれども、「どう考えても自分が作ったとしか思えないけれども、自分の中には着想しかなく、設計図すら書いていなかった」機械が何故か、目の前で現実化している。「ぼくと同じことを考えた技術者がいるのか」と思い続けながら、ある時それらの発明者が、公の記録で自分自身であるとされていることに気づきます。それも、マイルズたちに奪われたメイドロボ含め。或いは、同姓同名の別人が作ったのか?
 また同時に、ダンにはもう一つの気がかりがありました。
 それは70年代の世界に残してきた11歳の少女のこと。マイルズの義理の娘、リッキーです。彼女はダンに非常に懐いていたのですが、自分が未来に来てしまい、マイルズがベルと結婚した後ではベルにいじめられていたのではないか……と気に病んでいたのです。
 ――で、ここら辺りでやや唐突に、ダンは仕事仲間からタイムマシンの噂を聞きつけます。マッドサイエンティストの発明した不完全なタイムマシンで、一か八かの賭をしてまで、ダンは70年の世界に舞い戻ります。
 理解に苦しむのが、過去に戻る理由が見ている限り、「リッキーが結婚していたと知った」ことであるように読めてしまうこと。
 上にあるように「作った覚えのない機械の発明者が何故か自分になっていた」こそが物語上の謎であり、その辻褄あわせをすることが過去に戻る理由に違いはないのですが、例えば「その発明者のダンはひょっとすると同姓同名の別人では」或いは「人工冬眠に入る前に、実際には機械を作っていた記憶を失ってしまったのでは」といった疑問は一度頭に浮かぶも、追求されない。
 まあ、ダンが「そうか、ぼくが一度過去に戻って、やり残した仕事をやらねばならないんだ」と叫び、過去への旅行支度を始めればいいのでしょうが、そうするとネタバレになり、それもできなかったのでしょう*1
 どうもこの「過去へのタイムスリップ」の下りは荒さが目立ちます。一か八かの賭である点についての描写は粗雑ですし(最初は時間の跳躍距離が調整できないようなことを言っていたのが、いざ博士に会うと「二時間以上の誤差は生じない」と言われる)、博士をそそのかしてタイムマシンのスイッチを押させる描写も何だかダチョウの「押すなよ!」みたいな感じです。
 まあ、それはいいでしょう。
 その後は過去に戻ったダンが、着想だけあった新型メカの設計図を書き上げ、またマイルズの家に潜入、車庫に置かれていた家電の試作機を奪い取り、そしてまたそれらを売る会社を立ち上げます。つまり「未来で知った、自分のなすべき宿題」をここで終えるわけですね。
 ちょっとこの辺りが段取り通り、という感じがするのですが、それは『ドラえもん』とか『バック・トゥ・ザ・フューチャー』を見慣れたが故のゼイタクなのかも知れません。
 更には離ればなれになっていた愛猫ピートとも再会(ここは意外にあっさりした描写)、そしてリッキーの下へ駆けつけ、彼女がベルやマイルズから逃れ、祖母の家で暮らせるよう手配、「結婚の約束」をして、再び人工冬眠に就きます。
 ラストは2001年の世界で目覚め、そしてリッキーが約束通り、二十歳に成人した上で睡眠に就き、同じ時に目覚めたのを迎え、結婚。
 ちなみに会社も友人が大きくしておいてくれたので、今度の彼は大金持ちとして未来世界に目覚めることに成功したのです。
 一度は全てを奪われたダンが、復讐を果たし、全てを手に入れるハッピーエンド。
 また、そこには技術の革新が全てをよき方向に持っていくのだとの、大戦後の時代の楽観主義があります。

*1 実は本作、(旧版の訳者である福島正美の翻案による)児童向けのものも出ています(『談社SF世界の科学名作13 未来への旅』、1968)。そこではダンが過去へ行く理由があくまで「ロボット制作者の謎を解くため」と明言されており、わかりやすい。過去でのダンは他人から「辻褄あわせをしたじゃないか」と指摘され、「そうだったのか」とようやっとことの次第に気づく、という流れで、その方がいい気がしました(もっとも、そのせいでダンは「何となく」ロボットを作ってしまい、他人にそれを指摘されて初めて自分のしたことに気づく、というトンチキにされてしまっているのですが)。大人向けのものでは恐らく、「リッキーが結婚した」ことを知った時点でダンは全てに気づき、行動してはいるものの、それをぼかすことで読者に徐々に謎を明かす、「疑似叙述トリック」みたいなスタイルになっているように思われます。
 ちなみに博士にタイムマシンのスイッチを押させる下り、「大人向けではさすがにもうちょっとちゃんとした描写があるんだろう」と思っていたら、ほとんどそのままでびっくりしました。

 しかし、あちこちのブログを見てみると、本作についての批判的なレビューが存外に目につきます。
 まず本作について、決まったようになされる二つの評があります。
 曰く、「本作は猫小説である」。
 曰く、「本作はロリ小説である」。
 そう、本作ではダンの愛猫、ピートが活躍します。「猫小説と言われるほどではない」との評もあり、確かに中盤では全く出番がないのですが、猫を愛でる孤独なオタク気質を、彼のピートとの友情はよく表現しています。
 では、「ロリ小説」についてはどうでしょう。
 彼は11歳の少女に愛され、そしてまた彼女の成人を待って結婚します。
「結婚した時点で二十歳でなのだからロリコンではない」といった反論もあり、その意味で彼を精神医学上のペドファイルである、と呼ぶことはできないでしょう。
 しかしここに引っかかる読者も多いようで、どす黒い憎悪を本作にぶつけている御仁もいらっしゃいました*2

  仲のいい少女がずっと思っていてくれて、未来で結ばれる、というロリコンの白昼夢のような展開だ。
 
  ヒロインがなぜ主人公になついているのか、なぜずっと主人公を思っていてくれてるのか(何十年も!)、その説明がなされればいい。
  だが、驚くことにそこら辺の理由が一切説明されない。
 
  これをご都合主義と呼ばずしてなんと呼ぶ。私は読み終わって背筋が凍った。
  こんな展開を「感動のラブストーリー」だと思っているやつもいるようで、SFファンはどうりでモテないはずだと合点がいった。


 何でこの一作でSFファン全体を狂ったようにバッシングせねばならないのかよくわかりませんが、しかし、大変によくわかります。
 そのぼくの「わかりっぷり」をみなさんにお伝えするためにも、次回はもうちょっとだけ本作について詳しく見ていきましょう。

*2 ■『夏への扉』はとんでもない愚作なので褒めないでください(http://anond.hatelabo.jp/20130512143540
 しかし「駄作なので読まないでください」ならわかりますが、「褒めないでください」ってのは何だかおかしいですね。