>>3 「同情」というのは自分の不幸と他人の不幸のちょうど中間くらいでしょうか。だから、アルジェリア人の死亡記事には他人過ぎて、ぴんとこないけど日本人の死亡記事は他人過ぎず自分過ぎず、ちょうど中間くらいの頃合いでしょうか。その中で、情報の送り手がある種の儀式的に冷徹にそれを発信する時、受け手のむしろ内奥、ネットワークの途切れたところに喜びが発生するのではないでしょうか。ですからそれは、他者とほとんど共有し得ない喜びなのです。
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「同情」というのは自分の不幸と他人の不幸のちょうど中間くらいでしょうか。だから、アルジェリア人の死亡記事には他人過ぎて、ぴんとこないけど日本人の死亡記事は他人過ぎず自分過ぎず、ちょうど中間くらいの頃合いでしょうか。その中で、情報の送り手がある種の儀式的に冷徹にそれを発信する時、受け手のむしろ内奥、ネットワークの途切れたところに喜びが発生するのではないでしょうか。ですからそれは、他者とほとんど共有し得ない喜びなのです。