「報道被害」とは、被害者の遺族に報道関係者が、悲しい気持ちや憤りを根掘り葉掘り聞くことで、彼らの悲しみや憤りをさらに深くすることだ。マスコミはこれまで、被害者の遺族たちの心情に慮ることなく、彼らの悲しみや憤りを土足で踏みにじってきた前科がある。だから、ついには被害者の名前を公表しないという選択肢が関係者の間で生まれるに至り、今度の議論となったのだ。
今回は、結局マスコミもあらためて報道被害を起こさないと誓ったうえで、実名を報道することの意義を強く訴えたため、政府はこれを公表し、報道されるに至った。
ところで、その際マスコミは、実名を公表することの意義を、「事件の理不尽さ、悲惨さをリアリティをもって伝えるため」と説明した。あるいは、それによって犯罪の卑劣さ、残酷さを伝える目的もあるという。
この訴えに対し、ぼくは少し、疑問を感じた。そして、こうした訴えこそが、実は報道被害を生み出す温床になっているのではないか――とも思った。
そこで今回は、こうした訴えがなぜ報道被害の温床になるかということと、実名で報道するということの本当の意味というものを、あらためて考えてみた。
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>>1
武器なのに防具だと考えている嫌いがあるのかもしれませんね。でも、鉄の盾で人を殴り続けていたら死んでしまいます。報道被害は、そんなイメージではないでしょうか。
(ID:1168733)
「その不幸」が「自分の不幸」ではなく「他者の不幸」であることを認識させることができれば、それが快感を産み、情報の送り手と受け手のディペンダビリティあるネットワークが築けるということでしょうか。
(著者)
>>3
「同情」というのは自分の不幸と他人の不幸のちょうど中間くらいでしょうか。だから、アルジェリア人の死亡記事には他人過ぎて、ぴんとこないけど日本人の死亡記事は他人過ぎず自分過ぎず、ちょうど中間くらいの頃合いでしょうか。その中で、情報の送り手がある種の儀式的に冷徹にそれを発信する時、受け手のむしろ内奥、ネットワークの途切れたところに喜びが発生するのではないでしょうか。ですからそれは、他者とほとんど共有し得ない喜びなのです。