2013年9月9日に放送いたしました、岩崎夏海のハックルテレビ#50「裏ミリオンセラープロジェクト会議 vol.4」の模様を、web文芸誌「マトグロッソ」さんのご協力の下、文字起こし記事として掲載していただきました。
マトグロッソでの掲載終了にともない、当ブロマガに転載させていただくことになりました。
まだお読み頂いていない方もいらっしゃるかと思いますので、ハックルさんこと岩崎夏海と情熱あふるる建築科、光嶋裕介さん、冷静沈着a.k.a.井之上さんによる、「空間」の捉え方についての三つ巴の議論をお楽しみください!(スタッフ岡部)

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『もしドラ』作者の岩崎夏海氏(通称ハックルさん)がなんと、今度は「部屋」を軸に

人生について考える本を出されるという。その過程で「凱風館」や光嶋さんの仕事を知り、

ともに最良の「部屋」について考えるべく光嶋さんを「ハックルテレビ」にお招き下さいました。

ハックルさん、実は芸大の「建築科」卒で、大のリノベーション好き。

そんなハックルさんの考察と、光嶋さんの経験談は意外なほど噛み合って――!?

異色の組み合わせで盛り上がった「超創造的スペース」のつくり方、

当日の模様をダイジェストでお楽しみ下さい!

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◎その気にさせる部屋

岩崎 ここ、僕が作ったオフィスなんですけど、実は内田(樹)さんの『ぼくの住まい論』と光嶋さんの『みんなの家。建築家一年生の初仕事』を読み込んで作った空間なんです。内田さんがご本に、かつて平川克美さんと一緒に翻訳会社をやってらしたときのことを書いていて、「そこは人が集まる場所だった」と。

 

光嶋 「アーバン・トランスレーション」ですね、道玄坂にあった。

 

岩崎 そう、場所もいいから知り合いがみんなサボりにきて、ただ珈琲飲んで帰るのも悪いからって何かしら手伝って帰ったと。そのうちみんなが勝手に友達になって何かが生まれたりして。このオフィスもそんな空間にしたいなと研究していくなかで、内田さんが主宰している武道の道場であり学塾でもある「凱風館」の存在を知って、そこから光嶋さんのことも知ったんです。

光嶋さんの『みんなの家。』には、図面を見た内田さんが「掃除がしにくいからここ、変えて」と言ったという、そんなエピソードもあった。なるほどな、と。つまり、掃除が必要だということを最初から勘案して部屋を設計するということは大事だな、と思ったんです。

 

光嶋 そうですね。掃除の話もそうだし、凱風館って、内田先生のお弟子さんたちをはじめ日々大勢のひとが使う空間なわけです。「こういうロッカーのある更衣室にしてほしい」とか様々な要望を聞きながら、あらためて、ここはこんなにもこの人たちに求められてる空間なんだなと実感したんです。家というのは家族というひとつの核があってそれを軸に空間を作っていくわけですけど、凱風館の場合はただの住宅とは違う。

凱風館が完成するまでの過程をドキュメントした本に僕は『みんなの家。』というタイトルをつけたんですが、これがすべてを物語っているんですよね。ここでは「机が大きいと気持ちいいよね」とか「掃除しやすいほうがいいよね」といった共通する感性をどう拾い集めていくかがとても重要だった。みんなの希望をすべて取り入れることはできないし、そもそもクライアントというのは欲張りなものなので、あれもこれも要求する。でも建築家は、それらひとつひとつを精査して優先順位をつけなきゃいけないわけです。

 

岩崎 そういう意味では、光嶋さんはキャンバス職人ですよね。皆が描きたい絵はいろいろあるだろうけれど、「おまえが描きたいキャンバスはこれだろう」と規定できる職人というのが存在すると思うんです。たぶんスティーブ・ジョブズって人はそういう職人だったと思うんですね。iPhoneというのは色が二色しかないし形はひとつしかないけれど、そうやってキャンバスが規定されているからこそ、どういう絵を描くかという自由が広がっていく。

光嶋さんは、凱風館の机についても「こうあるべきです」というものを提案されてましたよね(※光嶋さんは凱風館のために「寺子屋机」を設計しているhttp://www.ykas.jp/jp_gaifoo_desk.htm )。僕も机ってすごく大事だなと思っているんです。

 

光嶋 空間を作っていくうえでいちばん大事なのは、人間が接触する場所なんです。「見る」という行為も、目で接触しているともいえるわけで、そうして人間が接触する表面にどういう素材を選んでパッチワークするか。素材そのものも考えるし、何より素材の組みあわせを考えるんです。そこで何をどうパッチワークするかを考えるためには、個々のアクティビティについて考える必要がある。たとえば合気道の道場である凱風館の場合は、畳の選択がすごく重要、とか。

 何より大事なのは、その場所の変化を視野に入れることなんですよね。僕がいちばん違和感を覚えるのは、「建築は完成した瞬間がいちばん」だと思われること。生まれたての赤ちゃんが無垢で美しいことは否定しませんけど、傷がついたり、たわんだり、経年変化していくことに対して愛着を持ってもらえるようにしたい。そういう気持ちもあって、僕は凱風館のあとに四つぐらい建築を作っているんですけど、ひとつの試みとして、それらすべてに名前をつけてる。擬人化というわけじゃないけれど、名前を与えることによって、そこに住み使う人たちに愛着が生まれるきっかけになるだろうと。僕自身も、完成したら「ありがとうございました」と建物を引き渡して終わりじゃなくて、成長を見ていきたい。実際僕は、凱風館の完成と同時に合気道を始めて、いまも稽古などのために通っているんです。ハックルさんのこの部屋だって、大事な会議が行われたり、こうして中継したり……そうした瞬間の蓄積がミルフィーユのように重なっていっているわけですもんね。

 

岩崎 僕もまさにそういうことを考えていて、それでここに「源氏山楼」という名前をつけたんです。もともとここ、原宿という場所はちょっとした丘になっていて、原宿駅のあたりが頂上なんですね。そこに源氏の流れを汲む武士がいて、それで源氏山という呼び名が明治ぐらいまで存在していた、と。そんな場所にあるから見晴らしがよく、まるで物見台のよう。それで「楼」とつけたんです。そうして名前をつけた上でリノベーション会社にお願いしたんですけど、そうするとすごく喜ばれて。

 

光嶋 そうでしょうね。さっき岩崎さんが「キャンバス」という言葉を出されましたけど、キャンバスを設定するために大事なのは顔が見えるということなので。「みんなの家」というときの「みんな」というのは「誰でも」という意味ではないんですよね。凱風館だったら合気道のお弟子さんに編集者、麻雀仲間――そういう、内田先生を中心とした「みんな」を指してる。もちろん建築家としては、構造的には誰もが「みんなの家」を作れるんじゃないかという、ある種理想主義的な考えを持ってはいますけど、それにしたってその都度、特定の人たちの顔を具体的に思い浮かべないと意味がない。

 

岩崎 そういう意味では、ここだって「みんなの家」ですね。あそこにソファーがありますけど、あれを見て僕のマネージャーの岡部が「こんな立派なソファーがあって、それなのにここでサッカーを見ないとはどういうことだ」と言い出したんですね。それで「岡部がそこまで言うなら仕方がない」と、ソファーの前にプロジェクターをつけてあげたんですよ。

 

光嶋 いいですね。僕も凱風館が完成していま18ヵ月が経って、良くなったなと思うのは、そうやってどんどん要素が増えていることなんです。こないだも顔を出したらこないだもお稽古に行ったら「チラシとか置く場所がなかったからここに棚を増やしたよ」なんて言われて、最初は「ええっ、俺に相談してくださいよ」とも思ったけど(笑)、いやそれは建築家の傲慢だよな、と。建築というのは常に動き続けるものだし、なかったものが付け加えられていくことで良くなっていくはずなんですよね。もし付け加えたことが失敗だったとしたら、それは淘汰されていくはずですからね。

 あと感じるのは、そうやって愛のある使い方をされることが蓄積になっていくためには、共同体のメンバーは極力多様であったほうがいいということ。というのも、似たもの同士だと「こんなこと思いつかなかった」という使い方がされないんですよね。福岡伸一先生が「動的平衡」という概念を提示されてますけど、その動的平衡がまさに空間にも起こりうると思っているんです。癌細胞……というと言葉は悪いですけど、そういうものを排除するのではなくいろんなものに対して開かれている場所というのが最も健全な建築ではないか。もちろんそんな綺麗事だけでは成り立たない部分もありますが、異物を同居させ多様性を生んでいくということは大事だな、と。

 

岩崎 この源氏山楼も、まだ出来て半年ぐらいですけど、さっそくいろんなドラマが生まれているんです。僕の親戚の大学生が親と折り合いが悪くなって「ここに住まわせてほしい」って来ちゃったり。で、実際1ヵ月ぐらい住んでて、その間にストーカー化しちゃった人がここに来るようになって「岩崎さん、いないって言ってください!」と頼まれたりしてるんです。そうやってドラマが生まれていくんですよ。

 

光嶋 ははは(笑)。ほんと、大きなイベントのようなカーニヴァル(祭り)だけじゃなくて、ほんのささやかな日々のちょっとしたことの蓄積が空間に宿っていくんですよね。

 

◎とっかかりがアイディアを生む

光嶋 それにしても、ここの厨房すごい! 業務用ですか?

 

岩崎 そうなんですよ。

 

光嶋 こういうものが何かを触発したり……つまり、僕は部屋というのは建築そのものだと思っていて、部屋というのは一般的に扉と扉で閉じられた六面体のことですけど、そこをどう「閉じないか」、それがいちばん大事だと思ってるんです。たとえばこの源氏山楼だと、この位置にいてもキッチンで誰かが何かを作っていたら、その気配を感じることができる。そうしてバラエティを豊富にして部屋の組み合わせをフリーにすると、1+1=2じゃなくて、いろんな組み合わせが生まれるわけです。そういう関係性をたくさん作ってあげることが最も豊かな建築なんじゃないか。そのためにも部屋を極力完結したものにしないで、余白を残してあげることが大事だと思ってる。窓が設けられているだけでも外との関係は複雑に生まれるわけだから、なるべく開いてオープンにするということは考えてますね。

 

岩崎 よくわかります。たとえば、貸し会議室ってありますよね。あの貸し会議室というのもひとつのキャンバスなのかもしれないですけど、僕はあのキャンバスにはあまり描きたいと思わないんです。何が足りないって、方向性が足りない。扉を開けるとそこにあるのはただの真四角の空間で、あまりにもフレキシブルだとかえって活用するのが難しいんですね。

 

光嶋 まったくその通りです。

 

岩崎 昔、欽ちゃんの番組の放送作家をやっていた人に聞いた話ですけど、何かテーマがあるとたくさんハガキが届くのに、ノンジャンルで募集すると途端に届かなくなるんですって。「何でもいいですよ」と言われると難しくなる。それを考えて、源氏山楼は明らかな方向性をつけたんです。こっちが前でこっちが後ろだという方向性をつけることで、ある程度の制限を加えた。そうすると、その方向性を活かして部屋を使うのか、あるいはあえて前後を逆にして使うのか、アイディアが生まれやすいんです。フレキシブルであることよりも、とっかかりがあることのほうが大事。

 

光嶋 まさに僕も、大学院の修士設計をしながらそういうことを考えました。オールマイティで何でもありな場所をつくる――空間を設計するというのはそういうことじゃないと思って。僕が修士設計に選んだのは、当時よくワークショップをしていたカンボジアと、自分が生まれた街であるニューヨークと、大学のある東京、その三つの都市に、それぞれオフィス兼美術館を設計すること。つまり、同じプログラムを同じ人のために設計するんですが、それが場所によってどう変わり得るかが見てみたいと思ったわけです。

 というのも、それまで僕は、建築家の姿勢として「水のようでありたい」と思っていたんです。水というのは定形がないのでいかなる器に対しても入っていける。それが理想だと思っていたんですけど、修士設計をする頃には「そうじゃないな」と思うようになっていて。たとえば同じ水だとしても、炭酸がきいている水もあれば、ちょっと甘い水もあるわけですよね。建築という絶対的な正解のない世界でやっていくうえで、やっぱり「ひと癖」はあったほうがいい。場所と文脈のない建築家の自我の塊みたいな建築をつくるよりは、液体としてあらゆるものにアダプトするような建築を建てたほうがずっと素晴らしいことだとは思うけれども、「光嶋に頼んで良かった」と思ってもらえるためには、さらに「ひと癖」が必要だとその頃には感じていました。それを追求していきたいと。さっきのキャンバスの例でいえば、単なるどんな絵でも描ける単なる白い紙より、ちょっと目が粗くて厚みのある紙とか、あるいはつるっとしたケント紙とか、紙にも癖があったほうが描くほうは触発されますよね。水彩画を描こうと思っていたけど、紙を見ているうちに自分のなかの「黒い線で描きたい!」という気持ちが芽生えたり。その制約がクリエイティビティを誘い、結果、魅力的な作品が生まれたりすると思うんです。

 

岩崎 僕の場合は、あるとき、いちばん好きな空間ってどこだろうと考えて、劇場だって気づいたんですよ。何が好きかっていうと、前と後ろが決まっているところ。それから、楽屋。扉は見えているのに、そこは舞台に出る人しか入れない。神聖な空間なわけですよね。すぐそこにあるのに手が届かない、いわば聖域を内包している空間。それに、劇場って後ろから前を見ているぶんには落ち着きますけど、前から後ろを見ると落ち着かない。そういう、空間そのものが持っているメッセージみたいなものに面白味を感じるんです。

 

光嶋 ちょっと宣伝になっちゃいますけど、先日出したばかりのこの本、『建築武者修行――放課後のベルリン』の中でも劇場の話を書いていて……何かっていうと、劇場には骨格がある、と。「形式」と言い換えてもいいかもしれませんが、この骨格があるからこそ扉を開けて劇場に入った瞬間にこう、ガラッと日常が切り替えられて非日常を味わうことができる。家においても、骨格の大切さというのは変わらない。次に大事なのが、その骨格をもった拠点を維持する……そこから物理的に動かないということ。つまり、「ハックルさんに会いに行こう」と思って原宿まで出かけてきたのに、来てみたら源氏山楼がなくなっていた。それはやっぱり避けたい。たとえば原宿という街、僕も学生のときからよく来ていて、街ごと現代建築の美術館みたいですごく楽しいところだと思ってる。でも、どうしても愛着を持てないところがある。それは街として変化するスピードがあまりにも速いからなんですよね。

 

岩崎 光嶋さん、原宿のGAPが壊されたことについて否定してましたよね。

 

光嶋 そうですね。あのスピード感は、ひとつの建築を建てることを軽視し過ぎていることの表れのような気がして。スクラップアンドビルドという文化は、経済行為という視点だけで見たら正しいことではあると思うんです。でも、10年で街ががらがら変わるというのはやっぱり異常だと思う。

 

井之上 一方で、その時代ごとに建築の良さを活かせるように「中身」が変わっていくのは大切ですよね。

 

光嶋 新陳代謝ですね。そう、それは必要です。でも、アンカー(ボルト)を打ったのであれば、それに対して責任は持たなきゃいけないと僕は思っているんです。「みんなの家」というのはそういうものだと思うんですよ。建築は街の風景を築き上げる大事な要素であり、必要に応じて内部空間に手を加える(リノベーションする)ことは大事ですが、壊して違う物をつくるリセット感覚には違和感を覚えます。定着することの意味、継続する時間が歴史をつくる感覚を大切にしたい。

 凱風館でいえば、内田先生はもともと東京の人間で、神戸女学院大学に雇われて神戸に引っ越した。住み始めてからも引っ越し族で10ヵ所ぐらい家を変わってるんですね。そういう人が初めて土地を買って、アンカーを打ったわけです。そうすることで、一度先生に関わった人たちがその後も折に触れて、あるいは何年も経ってからふと思い出したときにまた、同じ場所を訪ねることができるようになった。そういう拠点があるというのが理想的なあり方なんじゃないか。

 スクラップアンドビルドというのは、どんどん新しくしていく文化ですよね。もちろん新しくするなというわけじゃないですよ。ただ、ある拠点を中心に、ミルフィーユ状に空間を作っていったほうが豊かだと思う。

 

◎「住めば住むほど価値が増す」が理想

岩崎 世の中には、経年によって価値が上がるものがあるんですよね。僕がすごく気に入ってる、革靴の話があるんです。ヨーロッパのホテルマンがいう話で、自分たちはお客の靴を見ると。そのとき、高そうな革靴を履いていてもピカピカだと信用しない、と。成金の可能性があるというわけですね。いちばんいいのは十万円以上するもので、少なくとも二十年ぐらいは履かれているもの。それだけの革靴を二十年間維持できているということはそれなりの財力を持っている証明になる、と。つまり、二十年間の積み重ねが価値なる。経年変化がプラスになる。

 

光嶋 そう! 数値化不能なところに価値がある。日本の場合、ある土地や建築を手放すとき、土地は坪何百万という形で計算されて不動産上の価値が出ますけど、古い家屋には一切価値が認められないんです。これは建築家としてあまりにも心が痛い。よく考えてみなさいよ、と。ここに夏目漱石が住んでいたとして、そしたらあなた壊しますか、と。

 

岩崎 日本人はそれでも壊しますけどね。

 

光嶋 (笑)そういう場合もあるかもしれない。でも、それで保存される家もある。それなら皆が夏目漱石でいいんじゃないかと思うんですよ。でも、現実的にはほとんどの場合「解体費、いくら出せるの」って、そういう話になる。建築がまったく愛されてない証拠ですよね。革靴と同じように、どんな人だろうと、愛着をもって手入れしながら住むことによってその家の価値は上がるはずなんですよ。その価値というのは数値化できないかもしれないけれど、その数値化できない価値をどれだけ認めるかというところに少しでも目がいくべきだと思う。

 

岩崎 それについては少し意見があって。ウィーンに留学していた作家でジョン・アーヴィングって人がいるんだけど、彼はウィーンをボロクソに貶しているんです。あの街は死んでいる、あんなところからは何も生まれない、と。それに比べると古いものを壊して新しいものが生まれていくアメリカはいいところだと言っているんです。そう考えるとウィーンという街は否定されていいんじゃないかと思えるんですけど、そこはいかがですか。

 

光嶋 これ、この『建築武者修行――放課後のベルリン』でもまさにウィーンについて書いているんですけど、僕もウィーンには賛否両論なんです。いやウィーンは、近年はもう新しい建築もたくさん建っているんです。古いゴシック様式の教会が並んでいるところに突如としてポストモダンの現代建築が建っている。その混在ぶりをダメだというのは簡単なんですよ。でも、そのちぐはぐさの連続が今のあの街を作っているわけです。そうした異分子が生まれると「古いものを守るべきだ」というパワーがかかって、「いやいや、新しいものが必要だ」という反発が生まれていく――そのせめぎ合いをウィーンという街はすごく見せてくれる。おじいちゃんたちが建てた建築を代々守り続ける価値観と、それを単調でつまらないと考える価値観との軋轢の中で、新たなエネルギーが生まれているのは確かなんです。

 

井之上 この本を読むと、光嶋さんがヨーロッパ中を回って、さまざまなことを吸収してこられたことがわかります。きっとそれぞれの国の若者たちの姿もたくさんご覧になったと思いますが、そうした経験をした後で、日本の若い世代を見たときに感じることはありますか。

 

光嶋 ちょっと安直な例えですけど、ファミコン世代というのはいえる気がしますね。どこか、ゲームオーバーになってもまた一からやり直せるという考え方をしているように思える。土地や文化など、何かを代々受け継いでいく、自分が何かを背負っているという意識は薄い気がする。さらに、何かに熱い情熱をもってコミットしていくことにも消極的な気がしますね。ただ、それをまたメディアが「草食系」と称して、分かった気になって、思考停止状態になっているんじゃないですかね。

 

岩崎 文化論的にいえば、子供をいちばん大事にするのは日本なんです。外国では子供は非人だから、差別する。でも、日本は子供を、つまり新しいものを極端に大事にする。その反対に、姨捨山じゃないけれども、老人を大事にしないという文化が何千年と続いている。それが日本の伝統なんです。それからもうひとつ、これは津田大介さんに聞いてなるほどと思ったんですけど、日本は年号制度に馴染んでいる、と。大体20年ぐらいで年号が変わっていくわけですよね。年号が変わればなんとなく、これまでのことが一新されるような気分になる。それに対して、西暦というのはリセットしようがないんですよ。

 

光嶋 ああ、なるほど! リセットという言い方でいいのかわからないですけど、伊勢神宮の式年遷宮もまさにそうですね。ただ古いものをずっと守るんじゃなくて、サイクルを作ることで新陳代謝していく、と。ただ、これは宗教的であるということもそうですが、先のスクラップアンドビルドとは決定的に違う。それは、建て替えられた部材が再利用されることや、何より同じ場所に同じ建物を作り続けるということからもわかる通り、継承の文化なんですよね。これは、世界にない希有なことですよね。

 

岩崎 日本人はそういう考え方に馴染んでいるから、東京駅なんかも壊される寸前だったでしょう。

 

光嶋 あれは危なかった。今ようやく日本にも、リノベーションという形で「オリジナルの状態に作り直す」という価値観が出てきているんです。

 

◎部屋に「正解」はあるか

井之上 実は今、岩崎さんとチームを作って「裏ミリオンセラープロジェクト」を進めている最中なんですね。この本が売れない時代に、100万人に読んでいただける本を本気で考えて、実際に出版しようという企画です。そこで本のテーマにしようと考えているのが「部屋」なんです。なんとなく「仕事もプライベートもどこかうまくいかない」と感じている人たちは多いと思います。そういう人たちに対して「考え方を変えれば、人生を前向きに考えることができる」「こうした努力をすれば、成功に近づける」といったことを伝える自己啓発本もたくさん出版されています。でも、今回、岩崎さんと作っている本は、そういう「自己啓発」的なアプローチを取りません。「あなたの人生がうまくいかないのはあなたの能力の問題ではなくて、あなたを取り巻く環境の問題なんだ」というところからスタートして、一日のうちで一番長い時間を過ごす「部屋」の作り方について具体的なアドバイスをしていく本なんですね。ぜひ、第一線で働く建築家の立場から、「気持ちの良い部屋作りにはこういうやり方があるんじゃないか」というアイデアをいただけないでしょうか。

 

光嶋 僕は建築家として、最良の部屋というものに答えはないと思ってるんです。だから、部屋というテーマで本が書かれるとして、僕が最も参照できないと思うのは『1週間でTOEIC900点!』みたいな、ああいう本ですよね。あれはまさに等価交換を目標にした、500円払ったら500円分のビールが飲めるような本です。自分で言うのも変だけど、僕はこの『建築武者修行』という本を誠心誠意書いたんだけど、これは、これを読んだら何かができるようになるとか、建築家になれるとかそういった本ではないんです。その意味では『1週間でTOEIC900点!』といった本とは対極にある本ですけど、その代わり僕の10年間を目一杯凝縮して、ここから受け取れるものは最終的に読者に委ねてあるんです。だから、部屋というテーマで本を書くのは素晴らしいことだけれども、ある答えを提示する本というのはちょっと違うんじゃないかと思う。

 

岩崎 僕らはまず概念を示したいと思っているんです。僕は静的均衡の部屋は否定するという立場なので、「部屋は動的平衡を持つべきだ」という概念をまず示す。そのうえで、概念を示すだけでは理解できない人もいるから、動的平衡は何かというexampleを示す、と。そのexampleというのは剣道における素振りのようなものだと思うんですね。剣道というのは剣先がここまであって、こういう型があってと全部決まっているので、その型のひとつひとつを提示しよう、と。

 

光嶋 なるほど。あとは、マトリックスを示すのがいいかもしれませんね。動的平衡がある部屋というのは、とにかく変数が多いわけですから。変数の中心にいるのは当然部屋の主ですけども、その主にどれだけポケットや引き出しがあるのか。オレはひとりで部屋でネットをしてる瞬間が一番気持ちいいんだという人にとっては、部屋に変数はそれほど必要ない。だから必ずしも変数を増やしてあげる必要はないけど、それぞれの部屋主にとってビビビとくるものを部屋に反映させるためにも、マトリックスを示してあげるのは有効かもしれない。

 

井之上 今気づいたんですけど、私たちが作ろうとしているのは、いわば「参考書」なんです。誰もが直接光嶋さんと直接キャッチボールができるわけではありませんよね。でも、光嶋さんが考えていることを自分の部屋作りの参考にしたい人はいるはずです。そういう人たちに向けて、エッセンスを凝縮させた「参考書」を届けたいんです。

 

岩崎 やっぱり、譲れない基本ってあると思うんです。たとえば空間にも濃淡があって、濃い空間と薄い空間があるわけですよね。その濃い空間と薄い空間を取り合わせることで豊かな空間が生まれる――そんなことすらわからない人もいるわけですよ。廊下があって部屋があるから、部屋に入ったときの感動が生まれる。それがもし、廊下が部屋みたいな広さをしていたとしたら、そこから部屋に入っても何も生まれないでしょう。そうした譲れない基本を提示しよう、と。

 

井之上 今回の本では、動的平衡を保つという意味で、「掃除のしやすい部屋」というのを重要視しているんです。では具体的に「掃除のしやすい部屋」というのは、どういう部屋になるのか。これは、もちろん部屋の形や間取りなど建築レベルでの工夫もできますが、家具の置き方など部屋作りレベルでの工夫もできると思うんですね。

 

岩崎 もっといえば、たとえば掃除機ひとつとっても良い掃除機と悪い掃除機があると思うんですよね。性能だけではなくて、掃除機もやっぱり収納が大事なんです。それは扇風機なんかも同じで、扇風機は夏しか使わないものだから、丸っこい扇風機より縦置きの扇風機のほうがいいに決まっているんです。だから、そういうことは言っておこうかなと思っていて。

 

光嶋 提案の豊かさを語る方法はたくさんありますよね。その提案のなかからそれぞれが選べるような本であれば参考書になると思います。DJがミキサーを操作するように、それぞれの人が「オレはここに共感するからこうだな」と選べるようにあらゆる変数を見せてあげる、と。具体的に言えば、この源氏山楼のようにこのテーブルとキッチンとが繋がっていれば動的平衡もあるし開放感もあるけれど、空気量が多いので空調も大変になるしプライバシーもなくなるよ、と。

 都市というのは人間の欲望なわけですけど、部屋というのもまた人間の欲望で、その人の魅力がそのまま部屋に出るんですよね。変な話、魅力がある人の部屋は魅力的だし、魅力がない人の部屋は残念ながら単調な部屋になるとしか言い様がない。「オレは黄色が大好きだから、部屋を真っ黄色にする」という人がいたとして、僕は建築家として「黄色はワンポイントにしたほうがいいんじゃないか」と提案はするけども、その人を否定する必要はないよなと常々思っています。

 

岩崎 僕はね、たぶんまだそこまで行ってないんですよ(笑)。僕のなかでは、部屋が綺麗な空間として保たれているというのはひとつの正解なので、「オレは汚い空間が好きだから、部屋はホコリまみれのままでいいんだ」という人間がいたら全力で否定する。そういうことを今度の本でやりたいと思っているんです。

 

井之上 だから、今回の岩崎さんは、ある意味でものすごい「おせっかい」をやろうということなんですよね。

 

光嶋 建築家も基本的におせっかいですよ(笑)。「将来あなたたちに子供が生まれたときのために、こういう部屋があるといいですよ」なんて提案をするわけですけど、それはすごくプライベートなことであって、「おまえに言われたくない」という話ですよね。でも、そうしたおせっかいを含めて、他者への想像力を全開にして、ある価値を共有するのが建築家の仕事の核だと思っているんです。

 

井之上 普通、「おせっかい」というのは、顔の見える相手にしかやらないわけですよね。大変な労力がかかるわけですから、自分にとって大切な人相手にする。それに顔が見えていれば、向こうからピンポイントで「ごめん、それは必要ない」とか「ありがとう」とか反応が返ってきますから、おせっかいをする側としても、調整ができる。でも、今回の出版プロジェクトは、顔の見えない不特定多数の読者相手に「おせっかい」をしようとしているんです。岩崎さんには、「部屋を変えることで人生が拓けた」という経験がある。具体的には、あまり仕事がうまくいっていなかった時代に、思い切って部屋を変えた。それをきっかけにして『もしドラ』が生まれたわけですね。岩崎さんは、世の中の「ちょっと人生がうまくいっていないと感じている人」に対して、自分の経験を参考にしてもらいたいと本気で考えています。私は、その「おせっかい」の精神に賛同して、本作りを手伝わせてもらっているとも言えます。だって、岩崎さん自身のことだけを考えれば、今さらそんな「おせっかい」をする必要はないわけですよ。わざわざ「おせっかい」をして、炎上することもない(笑)。でも、岩崎さんは「おせっかいをしたい」と言う。これって素晴らしいことだと思ったんです。

 

光嶋 そうですね、おせっかいを通して、思いもよらないことに気付かされることってきっとあると思います。それを実行するためには、やはりマトリックスを示したうえで、最終的な選択や判断を読者に委ねることが大事だと思うんです。それはつまり、大きな地図を提示して、大通りなどの大切な情報をしっかりと書き込んでいくということですね。

 

岩崎 そう、必要不可欠な部分を。

 

光嶋 ある大通りがシャンゼリゼ通りだとして、大通りはたぶん一本じゃないし、街にはほかにコンコルド広場だってある。魅力的な都市計画にはクラスタがいろんなところに存在しているわけですね。さっき出た掃除というのも、部屋を考えるうえでかなり優位性の高い、共通性を否定できないファクターだと僕も思います。でも、それ以外のものっていうのは、僕もやりながら発見している感じなんですね。部屋の大きさのこと、どんなもので装飾するか、収納のこと、窓と光のこと、壁や床、天井の素材のことなど、このボタンを押せばここが光るというわけではなくて、このボタンを押すとあっちが光っちゃうんだけど、なぜあっちが光ったのかわからない――建築をやっているとそういうことが多々あるんです。設計は常にトライアンドエラーで、何で光るのかわからないということがたくさん起こるから建築はおもしろいんですよね。そのなかでどこまで変数を見つけられるかが大事だと思っています。今度の本はそれをみんなに伝えられるものになるといいですね!

 

(構成協力・橋本倫史/web文芸誌「マトグロッソ」より)

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【プロフィール】

●光嶋裕介(こうしま・ゆうすけ)

建築家。東京、目黒区在住。1979年、米ニュージャージー州に生まれ。早稲田大学理工学部建築科で石山修武に師事。大学院修了後、独ベルリンの建築事務所に4年間勤務。2008年に帰国し光嶋裕介建築設計事務所を主宰。2010年、思想家・内田樹氏の自宅兼道場(合気道)である凱風館を設計。SDレビュー2011入選。2010年より桑沢デザイン研究所、2011年から2012年まで日本大学短期大学部にて非常勤講師を務める。さらに2012年からは首都大学東京・都市環境学部に助教として勤務中。著書に『みんなの家。~建築家1年生の初仕事~』『幻想都市風景』、最新作ほ『建築武者修行―放課後のベルリン』がある。

●井之上達矢(いのうえ・たつや)

株式会社「夜間飛行」代表取締役。1977年東京都生まれ。早稲田大学卒業後、中央公論新社入社。2012年退社し、株式会社夜間飛行を設立。編集者、ライターとして手掛けた連載・書籍は、『池上彰のお金の学校』(池上彰著)、『国が亡びるということ』(竹中平蔵×佐藤優著)、『われ敗れたり』(米長邦雄著)、『立花隆の書棚』(立花隆著)など多数。