明治期に小川治兵衛(おがわじへい)という庭師が活躍した。彼は「近代」日本庭園の先駆者、あるいは創始者ともいわれる。つまり明治以降(大名庭園以来)の新しい庭を造り、その方向性を形作った人物なのだ。

治兵衛自身は、まだ江戸期の1860年に、現在の京都府長岡京市に生まれる(長岡京市は京都と大阪の中間地点である)。10歳のとき、京都の名門庭師だった六代目小川治兵衛の養子となって、七代目小川治兵衛を名乗るようになる。後に、植木屋の治兵衛なので「植治」と呼ばれた。

そんなふうに、植治のルーツは京都である。幼少の頃から、京都の庭をたくさん見てきた。それで、彼の中に当時としては特殊な「作庭観」が育まれる。江戸時代に主流だった大名庭園の広大さを志向するのではなく、かといって当時流行していた西洋風を志向するでもなく、あくまでも京都の伝統に固執した、限られた土地に囲って作る、昔ながらの日本庭園を志向するのだ。