例えば、不運なことが立て続けにあった時、占い師から「この壺を買えば運気が上向きますよ」と言われると、「不運による恐怖」を和らげたいため、ついそれを買ってしまうのだ。
恐怖心というのは、それほど強い支配力がある。人間には、喜怒哀楽とさまざまな感情があるけれど、恐怖心ほど人を強く支配する感情は他にない。
人は、喜びのためだったり、怒りのためだったり、悲しみのためだったり、ましてや楽しみのためにはなかなか動かない。子供に「飴をやるからお使いに行ってきて」と頼んでも、遊びに夢中になっていれば言うことを聞かない。彼らは、飴をなめる楽しみや喜びを平気で我慢する。
しかし、人は恐怖のためにだったらすぐ動く。遊んでいる子供に対して「お使いに行かなければ鞭で打つわよ」と厳命すれば、すぐさまお使いに飛んでいく。飴をなめるのは我慢できても、鞭で打たれるのは我慢できないからだ。
では、なぜ「恐怖心」はここまで人の心を支配するのか? 今回は、そのことについて考えてみる。
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>>1
そうですね。年齢を重ねると、面倒くさがりに陥らないような知恵や工夫が生きるうえでは必要になってくるでしょうね。仰るように、羽生さんの強さは彼の精神性がもたらしている部分がとても大きいのですが、それが将棋ファン以外には、時には将棋ファンでさえもあまり知られていないのはもったいないと思っています。
(ID:6142236)
面白かったです。
ネットを賑わせている某U氏のような出来事は、「恐怖」と対峙する面倒から逃れ続けていると誰にでも起こりうることなんだ、とハックルさんがおっしゃっているような気がしました。
「恐怖」センサーの感度は訓練で変化するものだとも思うので、訓練の仕方は手探りですが、敏感な恐怖心を育てていきたいと思います。
(著者)
>>3
ありがとうございます。
人間にとっての最大の恐怖は「分からない」ということです。だから、「恐怖」センサーの感度というのは、「『自分が分かっていない』ということにどれだけ気づけるか」ということです。「無知の知」のエピソードのままですね。自分が知らないということを認識できるかどうか、がだいじなのです。
ぼくは、自分が無知な人間であるというのを忘れないよう気をつけています。だから、分からないことがあったら聞きます。あるいは「分かりません」と言います。「聞くは一時の恥聞かぬは一生の恥」ですね。