隆盛を極めていた頃は年に数トンのコカインを米国や欧州へ出荷 していた。
ボゴタの中心地十九番街の高級ホテル“バカタ”の前の通りに面した数百台の収容能力を持つ
広大な駐車場は彼の所有不動産である。
他にもチャピネロやカリに五つ、六つの不動産をもっていた。十五年の刑をくらって最近
出所してきてからはもっぱら飲酒に明け暮れる毎日を送っていた。
酒と女が大好きでめっぽう強かった。
砂糖キビから作る強いコロンビアの地酒,アグアルデインテを日に二、三本は空けるのである。
そして酒癖が悪かった。
彼の住む高級マンションの門番ガードマン達はよく彼に蹴飛ばされたり、ビンタを張られた
りした。近所のスーパー.マーケットの従業員達もド突かれたが、仕返しが怖く誰も警察には
届けなかった。近所では嫌われ者の鼻つまみであった。
十数人の愛人との間にできた二十四人の息子、娘どもが、かわるが わる彼のアパート・マン
ションに金をせびりに訪ねてきていた。
そんな野郎と私が突拍子もない事件でぶつかった。
彼の隣のアパートに私のエメラルド・センターの日本人客が住んでいたからである。
バブル華やかしき頃の話しである。
ある日私はそこの住人、橋本氏を同じ日本人客小笠原氏と共に訪れた。ビールにウイスキー
をともなった夕食で歓談が沸いた。
私は四十代、二人はまだ三十代の元気のいい若者で、ともすればエネルギッシュな笑い声が
近所に鳴り響いた。すると突然、アパートの入り口のドアが外から凄まじい音響でドンドーン
と叩かれたのだ。われわれはドビックリし、何事が起こったのかと顔を見合わせた。
おそるおそるドアに手を掛けようとする橋本氏を“お客さんに何か危害がかかちゃイケナイ”と
制して私がゆっくりとドアをあけた。そこに中太りの赤ら顔の中年男が立っていた。
“なんだ!”
と私が言ったのとほぼ同時に、
この男が私の向こうずねを蹴り上げて顔面にゲンコツを見舞った。その衝撃で私は二、三歩
後ずさりをした。
すかさず、橋本氏と小笠原氏が
“ナンダこの野郎っ!”
と男に飛びかかり胸ぐらを掴んでビンタを張った。男も反撃した。
鼻に手をやった私の手に鼻血の鮮血がほとばしった。
それを見た私に怒りがムラムラッと盛り上がった。
廊下に出た私は二人に
“おたくらは外国人ビザだからこんな事に関わりあわないほうがよい、私に任せてください”
と言い、この男の腹に前蹴り、胸に横蹴り、顔面に上段突きを見舞った。この男も反撃した
が空手二段の私には届かない。
そして最後には飛び蹴りを食らわした。男はすっ飛んでぶっ倒れ、階段を転げ落ちていった。
騒ぎを聞きつけたマンションのガードマンが警察に連絡したので、パトカーがやって来た。
全身血だらけのこの男、すなわちホルヘ・パーラは救急車で警察病院に急送され、われわれ
三人は警察署に連行されて、留置所にぶち込まれた。
セメント壁と鉄格子で囲われた牢屋は小便臭く、しかも夜なので冷え込みが厳しい。
しばらくすると宿直の警察ずめの検事がやってきて、
“おまえら明朝一番でモデロ (ボゴタの未決囚刑務所)に送ってやる。今、書類作成中だ。
一人、スペイン語のわかるやつ出てこい”
と言った。
私はこの男に従い、長い薄暗い廊下を通り検事室のデスクの前にやって来た。名前や住所、
職業とひと通りの質問の後、
“モデロに入れられたら半年間は拘束だ、わかってるな?”
と薄笑いをして宣言した。
“弁護士を立て、すぐに出てくるさ、もっともアンタに小金を払って今釈放された方が安上が
りだけどね”
と私はこたえた。
“いくら持ってる”
と、さっそくヤッてきた。
…ひと晩中がかりの交渉で安上がりに釈放された経緯は他著に詳しく述べているのでここ
では省略するが、もしモデロに送られていたら大変な事になっていた。
他の同業エメラルド輸出事務所で日本人客の宮沢氏が無実なのにつまらぬエメラルド紛失事
件に巻き込まれて、このモデロに送られ数ヶ月間も拘束された後なん万ドルも費やし出所し
て来た事件がこのまじかにあった。
もっとも、このホルヘ・パーラの容態に異変 がおきていれば簡単にはいかぬ事だったので
検事は何度か病院と連絡を取り、安否を確かめた上での交渉処理であったから時間がかかっ
たのである。…
その晩ホルヘ・パーラは用心棒と酒を飲み、これを玄関に送り出してのかえり道であった。
もしその時いつものように用心棒を同行していたら間違いなく銃撃戦になり、私が殺られて
いたか私が相手を殺っていたかであろう。
この日から又、敵のヒットマンを警戒して厳戒態勢を敷く事になったが、いつもの事なので
特に疲れる事はなかった。
ホルヘは七十二針も縫う大怪我と複雑骨折で警察病院に数十日も入院していた。もう二、三
日も退院がながびけば過剰防衛傷害罪で問答無用に私は収監されると ころであった。無論彼
もそれを知っていて医者に、“あちらが痛い、こちらが痛い”と言って入院をのばそうと試みた
が、医者もそれを心得ていて退院延期を許可しなかった。又なぜなら、私が病院におもむき
医師を訪ねて告げた。
“この男は社会の屑、大コケロで私とかような経緯があった。今裁判で係争中だがアパートの
証人達にお願いしてそれを立証している”
と成り行きを説明して、彼の思惑を受け付けないようにお願いしたのだ。
彼は私を暴行罪で訴え数十万ドルの賠償と刑務所収監を請求して来た。私はそれに対して
六十万円相当の治療費を請求しただけにとどめた。
事件後しばらくして、彼の弁護士と名乗る男から電話があり、
“話しがあるから、是非会いたい”
と言ってきた。どういう思惑か知らないが、ともあれその弁護士事務所にボデイーガードを
伴い用心しながら赴いた。
退院したてで弱々しい感じのホルヘがソファーに腰をおろしていた。 身体のガッチリした、
ごっつい顔つきの若い白人弁護士がおもむろに話しを切り出した。
“このホルヘ・パーラとはながい付き合いで十五年の刑を少し短縮して最近刑務所から私が出
所させたばかりでこの騒ぎだ。この男はボゴタでは名のうれた組織の親分だった。セニョー
ル・ハヤタも有名なエスメラルデーロで、ムッソー(エメラルド鉱山地帯)で原石を商って
いるホルヘの兄からあなたの事はよく話しを伺っている”
“それで何をしたいんだ?”
私が促した。
“両者とも大物どうしだ。今回はパハロ(ヒットマン)の出しっこは止めにして、裁判闘争だ
けで決着をつけようと言う訳だ。その紳士協定は私が保証する。ここに居るホルヘに絶対に
違反させない”
と言い、隣のホルヘに目をやった。ホルヘもあごをしゃくって頷いた。
“裁判闘争だけに限るとは良い事だ、よけいな苦労が省ける。同意だね”
私もアゴをしゃくった。
“それでは、協定成立!”
弁護士が宣言し、ゲンコツを突き出した。それに習って、ホルヘも私もゲンコツを突き出し、
ぶっつけ合った。
コロンビアでは、一般大衆を別にすれば、タフな連中のもめ事ではまず手のこんだ法廷闘争
など無視し、ヒットマンによる手っ取り早い解決手段が常道だ。 それから一年ぐらいの間に
何度も裁判所に足を運び、尋問をうけたり、マンションの警備員の証人を連れて行ったりして
訴訟を整えた。もちろんその間にもコケロの言う事など信用できないので、敵のヒットマンの
襲撃にはじゅうぶん気を配っていた。 両者出席のカレオ(法廷裁判)も済み、いよいよ判決
がくだるという寸前になりホルヘから直接緊急の電話がかかってきた。
大事件が勃発したのである。
コメント
コメントを書く