ゲンロン観光地化メルマガ #34 2015年4月3日号

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#34
2015年4月3日号
編集長:東浩紀 発行:ゲンロン

ゲンロン観光地化メルマガ4月3日号(#34)をお届けします。
 

今号の「浜通り通信」は南相馬の郷土史家、二上英朗さんにご寄稿いただきました。古代から製鉄の中心地として栄えたという南相馬の知られざる歴史が、現在の原発問題とともに論じられています。

今号から弊社徳久倫康による2015.3.11 福島取材レポートが始まります。第1回はこの3月1日に全線が開通した常磐道を取り上げています。東浩紀の巻頭言では開沼博さんの新著『はじめての福島学』を受けて、新たな問題提起がなされています。なお、開沼博さんは4月8日に『常磐線中心主義刊行記念トークショー』で、社会学者の五十嵐泰正さん、そして本メルマガでもおなじみの小松理虔さんとともにゲンロンカフェに登壇されます。東浩紀も登壇するこのイベントで、議論が深められることでしょう。

黒瀬陽平さんの「311後の東北アート」、今回は番外編で、寺山修司の市街劇とイスラム国の映像が「拡張現実」という切り口から論じられています。これは3月28日にゲンロンカフェで開催された演出家の高山明さん、黒瀬さん、東浩紀によるトークショー「世界に仕掛ける新しい演劇」の際にも触れられていた議論で、次号との前後編となります。

様々な情報をお届けするゲンロン観光地化メルマガ、今号もお楽しみください。

 目次 

  1. 観光地化計画が行く #34 東浩紀
  2. 柏崎刈羽原発取材レポート #4 徳久倫康
  3. 浜通り通信 #23 フクシマ・ノート #4 二上英朗
  4. 311後の東北アート #23 黒瀬陽平
  5. チェルノブイリの勝者~放射能偵察小隊長の手記 #27 セルゲイ・ミールヌイ 保坂三四郎訳
  6. メディア掲載情報
  7. 関連イベント紹介
  8. 編集部からのお知らせ
  9. 編集後記
  10. 次号予告

 


観光地化計画が行く #34
東浩紀
@hazuma


前回記したように、今回はもともとは、先月の福島取材の結果を報告するはずだった。そして実際にその方針で書き始めたのだが、どうも文章に力が入らない。別に気にかかっていることがあるからである。それでもなんとか、気持ちを押し殺して書こうとしたのだが、やはりどうしようもない。潔く原稿の内容を変え、その別の問題に直面することにする。

その別の問題とは、取材の前後で読んだ開沼博氏の新著『はじめての福島学』への違和感である。あらためて紹介するまでもなく、開沼氏は福島県出身の若手社会学者であり、また弊社の福島第一原発観光地化計画のメンバーでもある。マスコミへの露出が多いが、行政やアカデミズムとのパイプも太く、原発事故をめぐる議論ではいま日本でもっとも信頼されている論客のひとりだ。そんな彼らしく、新著もまたたいへん啓発的なものなのだが、ただひとつ気になるところがある。

というのも、開沼氏はこの著作で、原発事故に関心を寄せる県外の人間の「滑った善意」がいかに「ありがた迷惑」であるか、多くの例を並べたうえで、最後にいちばん大事なのは「(福島のひとに)迷惑をかけない」ことだと宣言してしまっているのである。「(誤った知識しか手に入れていないひとは)大変残念なことであるけれども、何もしないでおいてもらったほうが、まだ迷惑でないのかもしれない」と氏は記している。

「迷惑」というのはじつに強い言葉である。たしかに、ある種の人々の放射線恐怖は深刻な問題であり、それを描写するのに「迷惑」と言う言葉を使いたい気持ちはわかる。ぼく自身、チェルノブイリへのスタディツアーを主催するなどして、微力ながらそのような恐怖に抵抗し啓蒙活動を行っているつもりである。

けれども、そのような実例が個別にあるということと、開沼氏のような力のある論客が、福島県民の気持ちを代弁するかたちで(文脈的にはそのように読める)「ありがた迷惑」を宣言するということは、まったく別のことである。氏は百も承知だろうが、このような宣言で重要となってくるのは、なにが迷惑でありなにが迷惑ではないのか、その分割の基準であり、またそれを決定するのがだれかということである。その点に注意を払って読むと、この本では氏は、県民にその善意が利益をもたらすのかどうか、そして県民がそれを利益だと感じるかどうか、それだけしか基準を提示していないように見える。つまり、いささか露悪的に要約すれば、金を落とさないなら黙れ、氏はこの本でそのように言ってしまっているように見えるのだ。福島第一原発観光地化計画など、この基準に照らせば「ありがた迷惑」でしかない。「同志」だったはずの氏のそんな宣言に、ぼくは大きな戸惑いを覚えた。

開沼氏の宣言は福島の読者に歓迎されていると聞く。それだけ震災後に「迷惑」の例が多かったということだろうし、その思いは切実だ。だからぼくはそれを安直に批判するつもりはないし、そもそも批判する権利もない。

ただぼくが思ったのは、まだ若く、県民の支持も厚い開沼氏がこのような「宣言」を打ち出してしまったあと、県民でもなければ、県民を雇う事業を起こせるわけでもなく、県民になる予定もないぼくのような人間は、原発事故に今後どのような関心を向けたらよいのだろうか、という疑問である。同書を読み、同じように感じる読者はぼくのほかにもいるのではないか。

この問題はむずかしく、早急に結論を出すべきものではない。ただそれでも、このひと月ほど考え続けた結果として、いまぼくが考えているのは、福島第一原発の事故について考える道は、福島から入る道と原発事故から入る道、その二つがあるはずであり、またあるべきだということである。

福島第一原発の事故は、「福島」の原発事故であると同時に、また福島で起きた「原発事故」でもある。それは戦後の福島が抱えた複雑な歴史の帰結であるとともに、原子力という制御のむずかしいエネルギーに手を出した人類の矛盾の帰結でもある。だから事故への関心は、福島という個別の地域への関心とは別に育てられるはずだし、またそうするべきだとぼくは考える。

福島第一原発事故には、世界的で普遍的な意味がある。だからできるだけ多くのひとにその現場を見てもらいたい。ぼくの観光地化計画の提案はその認識から出発しており、被災した福島を舞台にしてはいるものの、その特殊性に焦点を当てたものではない。だから、ぼくには、原発事故について語りたいのであればまずは福島の現実を学び、その利益を考えるべきだといった主張は、むしろ、あの事故がもっていた普遍的な思考やグローバルなコミュニケーションの可能性を大きく損なうもののように感じられるのだ。実際、チェルノブイリの事故について考えるとき、日本にいるぼくたちはチェルノブイリ市やポレーシャ地方の歴史をどれほど意識しているだろうか。そして、もしそこでウクライナ人たちが、彼らの政治や歴史に通暁せず、彼らの土地に金も落とさないで原発事故について語られても「迷惑」だと主張したとしたら、ぼくたちはどう思うだろうか。

福島から考えるべきか。それとも原発事故から考えるべきか。その優先順位の点で、開沼氏とぼくは意見が異なっているのかもしれない。しかし、本来はふたつは衝突するものではないはずである。

開沼氏が『はじめての福島学』を記したのであれば、ぼくたちにいま必要なのは、『はじめての原発学』『はじめての原発事故』といったもうひとつの著作なのかもしれない。

 

東浩紀(あずま・ひろき)
1971年生まれ。作家。ゲンロン代表取締役。主著に『動物化するポストモダン』(講談社)、『クォンタム・ファミリーズ』(新潮社、三島由紀夫賞受賞)、『一般意志2.0』(講談社)、『弱いつながり』(幻冬舎)等。東京五反田で「ゲンロンカフェ」を営業中。