#30
2015年2月6日号
編集長:東浩紀 発行:ゲンロン
ゲンロン観光地化メルマガ2月6日号(#30)をお届けします。ついに本メルマガも30号。
これからも他では手に入らないような情報をお届けしていきます。末長くよろしくお願いします!
東浩紀の巻頭言、先月号はお休みをいただいて申し訳ありませんでした! 今号は「イスラム国」の衝撃を分析する、たいへん読み応えのあるエッセーになっています。 また、今号から弊社徳久による柏崎刈羽原発レポートが始まります。新潟県の柏崎刈羽原発は世界最大の原発で、技術面でも世界最先端だったとのこと。3.11後稼働停止しているこの原発が、いまどのような状況にあるのか、3回連続で写真とともにレポートします。
「浜通り通信」は小松理虔さんの「ロッコク」(国道6号線)通行レポートの後編。被災地の現状から未来へ、「福島第一原発観光地化計画」への言及とともに、今後の被災地ツアーへの提言がなされています。黒瀬陽平さんの「311後の東北アート」今回は特別番外編。新芸術校ではどのように作品の「講評」がなされるのか、大学の卒業展から具体例を挙げて論じられています。ミールヌイ小説では放射能の「味」? が話題に。小話や引用をちりばめ、ポストモダン小説テイスト全開です。
では、ゲンロン観光地化メルマガをガイドに、観光の始まりです!
目次
- 観光地化計画が行く #30 東浩紀
- 柏崎刈羽原発取材レポート #1 徳久倫康
- 浜通り通信 #19 「ロッコク」を走り抜ける 2 小松理虔
- 311後の東北アート 「祈りのかたち」を探して #19 黒瀬陽平
- チェルノブイリの勝者~放射能偵察小隊長の手記 #23 セルゲイ・ミールヌイ 保坂三四郎訳
- メディア掲載情報
- 関連イベント紹介
- 編集部からのお知らせ
- 編集後記
- 次号予告
観光地化計画が行く #30
東浩紀
@hazuma
前号では本連載を休んでしまった。だからこの原稿も本来は連載第30回ではなく第29回なのだが、巻頭言という性格上、回数を号数と合わせさせていただく。おかげさまで、社内の混乱も多少は落ち着いてきた。今後は原稿を落とすことなく、スケジュール管理をしっかりしていきたい。
パイロット殺害映像の衝撃
さて、今回は本来は、拙著『弱いつながり』が紀伊國屋じんぶん大賞を受賞したことに絡めて、観光と哲学の関係について記そうと思っていた。それはこのメルマガのテーマとも密接に関係するからだ。しかし、そんななか、衝撃的な映像が飛び込んできて、それどころではなくなってしまった。映像というのは、みなさんもご存じであろう、イスラム国によるあのヨルダン人パイロットの焼殺動画である(この原稿では、執筆時点でのわかりやすさを優先し「イスラム国」という表記を採用する)。
動画の内容については、いまさら説明しない。オリジナルは投稿後すぐに削除されているが、ネットには無数のコピーがばらまかれており、いまでも本気で探せばすぐ見つけることができる。一目見ればわかるが、おそろしく残虐な映像である。
しかし、あえて逆説的な表現をするが、あの映像の本当の衝撃はその残虐さには「ない」(このようなことはマスコミでは絶対に言えないが)。というよりも、もし本当に残虐さだけを強調したかったのであれば、イスラム国はあのような編集過多の、ハリウッド映画のような映像は作らなかったのではないかと思う。あの映像の本当の衝撃は、むしろ、ぼくたちがあの映像を前にして、もはやそれが残虐なのかどうかすらわからなくなってしまう、そのような「麻痺効果」にあるのだ。
どういうことか。
戦争のゲーム化
事件が残虐かどうかわからなくなる。それは、言い替えれば、事件が現実かどうかわからなくなるということである。
冷戦崩壊以後のこの四半世紀、世界は戦争やテロから着実に「現実感」を剥ぎ取ってきた。これはよく指摘されることである。人文思想でメルクマールとされているのは、1991年の湾岸戦争だ。この戦争では、バグダードへの空爆が世界中に衛星中継されたり、戦闘機によるピンポイント爆撃の記録が米軍から提供されたりと、それまでは隠されてきた戦闘場面の「可視化」「映像化」が格段に進み、その模様は「ニンテンドー・ウォー(ゲーム戦争)」と揶揄されたりもした。その状況を、フランスの思想家、ジャン・ボードリヤールが「湾岸戦争はなかった」という言葉で表現し(そして世界中から非難され)たのもよく知られた話である。日本では、押井守の映画『パトレイバー2』(1993年)が、批評的な反応として挙げられるだろう。
戦争のゲーム化。あるいは現実の虚構化。技術の進化により、かえって映像から現実感が剥ぎ取られ、戦争の記録と戦争映画の境界が曖昧になってしまう皮肉。その状況の危険性は、さまざまな論者によって指摘されてきた。いまやアメリカのゲーム産業が軍需産業と結びつき、訓練に一役買っているという事実もある。その点では、件のヨルダン人パイロット殺害映像も、そのような「戦争のゲーム化」の行き着く先に生まれたものと言えるし、それはまちがっていない。しかし今回の映像には、いままでとは異なる際だった特徴がある。
それは、ひとことで言えば、「現実が虚構のように見えることにもはや作り手すら戸惑いを覚えていない」という特徴である。ヨルダン人パイロットが実際に殺害されたのは、映像公開の1ヶ月前の1月3日だと推測されている。その1ヶ月をかけて、イスラム国(の映像スタッフ)は、殺害直前のインタビューと複数カメラで押さえた焼殺映像を丹念に編集し、特殊効果とBGMを加え、ハリウッド映画やディスカバリーチャンネルもかくやと思わせる「エンターテインメント風」作品をHD画質で仕上げてきた。エンターテインメント風というのは決して誇張ではなく、実際、もしイスラム国から送られてきた「現実の」テロ映像であるという事前情報がなかったら、ほとんどのひとは、あの映像を見ても(たとえばネットでリンクを踏んで思わず再生してしまったとしても)映画の一場面かなにかとしか思わなかったのではないかと思う。荘厳なBGM、過剰なカットアップ、これでもかと挿入されるアラビア語字幕は、むしろ映像から現実感を剥ぎ取っている。そしてイスラム国は、もはやそれでいいと考えている。
HD化が意味するもの
これはちょっとしたパラダイムチェンジを意味している。この数十年、確かに現実と虚構の区別は曖昧になり続けてきた。しかし同時に、そのなかで多少なりとも「現実らしさ」を保つための技術も開発されてきた。多くの作家はそこで、「現実らしさ」は、あらかじめ用意されたシナリオに則ってではなく、予測不可能な事件をその場その場で撮影しているからこそ強いられる映像の不完全性、すなわち画質の低さや突然の切断やフレームの手ぶれなどに現れると考えた。そのような「擬似ドキュメンタリー」の手法を駆使して作られたのが、たとえば『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』(1999年)であり、J・J・エイブラムズの『クローバーフィールド』(2008年)である。
実際、湾岸戦争の空爆映像にしても、あるいは2001年のアメリカ同時多発テロでの世界貿易センタービル崩壊映像にしても、それらはしばしば「映画のようだ」「ゲームのようだ」と語られはするものの、実際にはたいして映画にもゲームにも似ていない。それらの画面は、映画やゲームと比べると、あまりにも画質が低く、カメラワークも杜撰だからだ。それゆえぼくたちは逆に、そのような質の「低さ」こそを、むしろ現実の根拠だと考えるようになっている。それは、あらゆる記録が映画化しゲーム化し、現実と虚構の区別がつきにくくなった現代においては、正気を保つためのぎりぎりの良識だと言うこともできる。
ところが、イスラム国の映像は、いま(たとえ彼らがそれを意図していなかったとしても)まさにその最後の良識を標的として破壊しようとしているように見える。現実は、もはや現実らしく見える必要はない。戦争が戦争らしく、テロがテロらしく見える必要はない。必要なのは、圧倒的な画質と巧みな特殊効果と荘厳な音楽によって、世界中の若い視聴者の心を「映画のように」動かし、兵士志願者を集めることでしかない。
ぼくの考えでは、件の殺害映像にはそのようなはっきりとした意志が現れている。そして震撼すべきは、事件の残虐さもさることながら、むしろその意志に対してである。イスラム国は、残虐な現実をつきつけ、ぼくたちを恐怖で支配しようとしているのではない。むしろ彼らは、なにが残虐でなにが残虐でないのか、なにが恐怖でなにが恐怖でないのか、その境界そのものを破壊しようとしている。だからこそ、各種メディアで報道されているとおり、彼らのもとには、世界中から得体の知れないふわふわした動機の若者たちが集まることになるのだ。
イスラム国は、つぎからつぎへと殺害映像をネットに投稿し、拡散し「炎上」することで、この世界から、現実と虚構の区別を奪おうとしている。だとすれば、その動きを抑え込むため、ぼくたちがまずすべきことは、もういちど現実と虚構の区別をきっちり引き直すことである。ひとの首を生きながら落とすこと、ひとを生きながら焼き殺すことは、その映像をモニタの前で見、「いいね!」ボタンを押すこととはまったく違うということを、何度でも確認し続けることである。この点では、いまぼくは、イスラム国の出現によって、湾岸戦争以降の映像文化全体の意味が問い直されているようにも感じている。
最後に付け加えれば、ぼくはイスラム国の脅威の本質を以上のように捉えているので、一部で称賛されている「クソコラ」による抵抗運動はまったく評価しない。クソコラを称賛する人々は、あれら日本のオタクたちが作り上げたパロディ画像は、テロの現実を虚構化し、笑いの対象とすることで、イスラム国の権威を貶め、彼らの勢力を削ぐことにつながるのだと主張している。しかし、ぼくの考えでは、その虚構化の欲望こそが、そもそもイスラム国の欲望に近いのだ。
パイロットの生きながらの焼殺をハリウッド風に編集するイスラム国の感性と、首にナイフを突きつけられた人質たちの写真をアニメ風にコラージュするわが国のネットユーザーの感性は、彼ら自身が思うほどには遠くはない。
(つづく)
東浩紀(あずま・ひろき)
1971年生まれ。作家。ゲンロン代表取締役。主著に『動物化するポストモダン』(講談社)、『クォンタム・ファミリーズ』(新潮社、三島由紀夫賞受賞)、『一般意志2.0』(講談社)、『弱いつながり』(幻冬舎)等。東京五反田で「ゲンロンカフェ」を営業中。
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