日本の教育には、2つの大きな課題があると僕は思っている。ひとつは「道徳」、もうひとつは「人材の育成」についてだ。
僕が子どものころには、「教育勅語」というものがあった。教育勅語は、大日本帝国憲法が発布された1年後の1890年に発表された。当時の「正義と倫理」を詰め込んだものといっていいだろう。明治国家の外側は憲法、内側は教育勅語だった、と僕は思っている。
戦前の子どもたちは、みな学校で教育勅語を暗記させられた。いまでも僕は暗唱することができる。「朕(ちん)惟(おも)うに我が皇祖皇宗國を始むる」から始まって、「父母ニ孝ニ、兄弟(けいてい)ニ友ニ、夫婦相和シ、朋友相信シ」とくる。父母には孝行し、兄弟は仲よく、夫婦むつまじく、友だちは信じ合う、といった意味だ。「一旦緩急アレバ義勇公ニ奉シ」という軍国主義に通じると思われる言葉が、なかにはある。だが、ほとんどが現代にも通じる、生きていく上で大事な教えが、たくさんあったと僕は思う。
いわゆる明治憲法は、明治の元勲、伊藤博文が中心になって制定した。憲法制定の下準備のためにヨーロッパ諸国を視察したとき、伊藤は、あることに気がついたという。イギリス、アメリカ、ドイツ……、どの国も国民の心の根底に「キリスト教」があるのだ。
「嘘をいうなかれ」「殺すなかれ」「盗むなかれ」……。キリスト教は「~するなかれ」という戒(いまし)めの宗教である。だから、国民の多くがキリスト教徒である欧米諸国の憲法は、個人の心の中まで踏み込む必要がない。
一方、日本は仏教徒が多い国である。そして日本の仏教は、きわめて戒めが少ない宗教だ。キリスト教徒と違って、仏教の信者は毎週お寺に通ったりしない。しかも、「八百万(やおよろず)の神」の言葉があるように、どんなものにでも「神が宿る」という発想がある。日本人の宗教観は、よく言えばおおらか、悪くいえばいい加減なのだ。
ヨーロッパ諸国を視察した伊藤は、そこでハタと悩んだ。日本のような国を治めるのに、憲法だけでよいだろうか--。そこから生まれたのが、教育勅語なのだ。憲法ではカバーできない心の問題を、天皇が「教育勅語」として国民に与える形をとった。先に書いたとおり、憲法と教育勅語は、日本を支える両輪だったのだ。
ところが戦後になって、「教育勅語」は廃止された。新しく日本国憲法はできたが、一方の「心」の指針はなくなったままだ。
日本人の道徳の欠如、社会の乱れの原因はここにある、というのが安倍首相の見方だ。それならばと、安倍首相は憲法に道徳的な考えを盛り込もうとした。「家族は仲よく」ということを憲法に明記しようというのだ。
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