武術界を潰すかもしれない核弾頭のような選手。それが瀬戸選手だ。
今回の巌流島は、興味深いカードが目白押しである。未知なる強豪については、まだ考察のしようがないので、私が推薦した蟷螂拳の瀬戸信介選手について、その注目ポイントを書いてみたい。一般の人は私が蟷螂拳をやっているから、当然仲間であると思っている。無論、広い意味では仲間だし、私も瀬戸選手を応援していることは間違いない。しかし、中国武術界という狭い世界で見ると、瀬戸選手は、立場的に私の敵になるのだ。
空手にも、型の選手と組手の選手がいる。それぞれ、専門に練習しているので、型の選手が組手試合において、組手専門の選手に勝つことはありえない。
ところが、中国武術の場合はもうちょっと複雑だ。正式な中国武術の大会は、実は型試合しかない。李連傑が武術チャンピオンという触れ込みで映画界に入ったが、あれは型試合のチャンピオンという意味で、空手やボクシングのチャンピオンとは意味が違う。
この型試合のことを表演といい、伝統武術をやっている人間達は表演と言う言葉に、多分に蔑みのニュアンスをこめる。丁度フルコンルールの空手をやっている人が、全空連ルールを寸止めと呼ぶ時のニュアンスに違い。
私がやっているのは、伝統の中国武術。しかも、それを日本で最初に本格的に紹介した松田隆智先生の拝師弟子だったわけだから、立場的には伝統武術のど真ん中にいる。
そして伝統武術家は、昔から、飛んだり跳ねたりする表演を華拳?腿(花のような突きと、刺繍のような蹴り)などと呼んで、思いっきりバカにしてきた。これは日本だけでなく、中国でも伝統武術家は今でもそんな見方をしている。
そして、瀬戸選手は華拳?腿の象徴である、表演の長拳や南拳の選手なのである。
そもそも武術と格闘技の一番の違いは、自己の身体を武術体に変えることを主眼としているかどうかだ。だから武術修行者は、武術的な動きを身体に染み込ませるべく、毎日型をやったりするわけだ。その点に関しては伝統武術も表演も変わらないのだが、どのような身体操作を目指すべきか、という肝心な点が違う。伝統武術では例えば太極拳のようにゆっくりという動いて気を練ったり、形意拳のように中段突きだけを一生懸命繰り返したり、地味な基礎鍛錬が多い。しかし、表演の場合は、派手で難易度の高い動作を入れないと高得点が出にくいので、どんどん高度化していく。採点競技の体操やフィギュアを想像していただければお分かりだろう。空手のように、基礎的な規定型で競うのではなく、体操競技のようにどんどん高度化していくのが中国武術の表演の世界だ。皆さんはご存知ないかもしれないが、太極拳だって今は体操競技のように軽業を競う種目がある。
大山総裁が著書の中で、「バレリーナとは喧嘩するな」と良く書かかれていた。身体能力のある人間は下手な空手家より強い、という意味だ。
大山道場出身の加藤重雄先生も、陸上競技出身だが、「空手家は陸上選手と喧嘩したらかなわない」とよくおっしゃっていた。一度、全盛期の目白ジムに陸上の日本代表クラスを連れていったことがあるそうだ。彼はその場にいたプロ選手を全員圧倒してしまったそうだ。黒崎先生は「すぐに全日本チャンピオンになれるから、キックをやれ」と言ったそうだが、「そんなにレベルが低いなら面白くない」と断わってしまったという。
さて、伝統武術と表演の目指す身体操作の違いは、身体能力VS技という、実は中国武術界だけではなく、空手界やキック界をも含む格闘技界全体の、昔からの隠されたテーマだったのである。
美人カンフー王者として有名な陳静さんの弟子であった瀬戸選手のフィジカルは凄いものがある。極真やFSAの段外の部であっさり優勝したのはまだいいとして、私が昔マッチメイクした、ラウェイルールの大会では、あの無門会の強豪から右ストレート一発でダウンを奪い、これもあっさり勝利。日頃、武道の動きを一生懸命練習していた人達は、誰一人として身体能力の高い陳静さんの弟子に勝っていない。瀬戸選手の活躍は、実は伝統武術のイデオロギーそのものを崩しかねない。
武術や武道を一生懸命練習しても、運動神経が良く、身体能力の高い人にはかなわない。こんな事実が表沙汰になったら、誰も武術や武道をやらなくなってしまうだろう。
瀬戸選手は、実は武術界にとっては、こんなにデンジャラスな可能性を秘めた核弾頭のような選手なのだ。
だから私は瀬戸選手の試合を注目する。