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今回は、ニコ生ゼミ04月07日(#276)から、ハイライトをお届けいたします。
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「【『平成狸合戦ぽんぽこ』解説 1 】 『ぽんぽこ』は『ブレードランナー』と同じ話」
じゃあ、『平成狸合戦ぽんぽこ』その1。
先週、「なぜ、宮崎駿は泣いたのか?」という話をしたよね?
今日はね、これだけね覚えてくれたらもう大丈夫。
同じテーマを表と裏から見たら、表が『ブレードランナー』なんだよ。
どっちも同じく「人間になりたくて、人間から拒否されて、やがてテロに走るか、あるいは人間の中に紛れて暮らすことを選んだ、人間じゃないものの話」なんだ。
このプロットを、眉毛つり上げて、しかめっ面で語ると『ブレードランナー』になるんだよ。
で、これを頬を緩めて馬鹿話として語ると『平成狸合戦ぽんぽこ』になるんだ。
同じような話なんだよ。
しかし、人間とレプリカントの本当の違いとは何か?
優しい青年セバスチャンに助けられたプリスは、セバスチャンを利用することにまるで躊躇がない。
なぜかというと、レプリカントには感情移入能力がないからだよね。
だから、彼らは他人を「かわいそう」とは思わない。
けれども、同じレプリカントであるレイチェルは「自分はレプリカントなのではないか?」と疑って、不安になってデッカードを頼ってくる。
その時、自分を助けるためにデッカードが怪我をしたので、レイチェルはデッカードを抱きしめてしまう。
「あれ? 感情移入能力があるじゃないか」と、デッカードは次第にレプリカントと人間の違いがわからなくなってくる。
しかし、ブレードランナーであるデッカードは、レプリカントを見つけて殺さなきゃいけない。
これが『ブレードランナー』のストーリーだよね?
その結果、単なる野生動物が、人間が好きで人間の文化に憧れてイタズラする「ぽんぽこタヌキ」という不思議な存在になってしまった。
呼びかけられたことによって「ぽんぽこタヌキ」になってしまった疑似サピエンスとしての存在は「人間になれない人間」としての悲しい運命を辿っていくという、レプリカントの物語なんだ。
この正吉は子供の頃から人間の生活に憧れてきた狸であって、夜中に1人でブランコに乗ったり、人間のひな祭りを見てて羨ましそうにしてたりして、とにかく人間になりたくて仕方がない。
しかし、この正吉の友達の、身体のデカいオッサンみたいな顔をした “権太” という狸は、「俺達の住処を奪った人間を殺す!」と言って過激な行動を取る。
幼馴染の “ぽん吉” というのは「人間と関係ないところで狸のまま暮らしたい」と思っている。
このぽん吉の気持ちを、正吉は「ずっと分からなかった」と後で言うことになるんだけど。
そこに降って湧いたのが、多摩ニュータウンの開発。
正吉は人間研究という言い訳の元に、大好きな人間を勉強して人間になろうとする。
なので、正吉は春になって狸の発情期がやってきても、メス狸の恋人の “キヨ” に「僕たちはいつまでも清らかな関係でいよう!」とか言い出すんだよ。
人間観、理性で振る舞うことが人間らしいということで、狸的な本能を押さえて、より人間的に理性的に振る舞おうとしてしまうんだよね。
それくらい正吉っていうのは一生懸命、狸である自分を否定して、人間になろうとするんだけども、いくら正吉が人間になりたくても、人間は多摩ニュータウンが大事だから、狸たちはゆっくり絶滅に向かっていく。
何人かに重症を負わせて。
しかし、『ブレードランナー』のレプリカントの反乱と同じく、狸の反乱も全く社会を動かさないんだよ。
結局、デッカードと同じく、正吉も恋人のキヨと逃げて、隠れて社会の中で暮らすことを選んだ。
こういうふうに、『ブレードランナー』と『狸合戦ぽんぽこ』って、実はかなり同じ話なんだけど。
やっぱり、違いは何かというと「高畑演出では、出来るだけ話が深刻にならないように描いている」ということなんだ。
1つ目の話のテーマは「なんで宮崎駿が泣いたか?」なんだけど。
もちろん、宮崎駿は自分の青春時代の労働運動とか社会運動の行く末が残酷なまでに狸の中に描かれているから感動したのかもわからない。
でも、実は「一途ないじらしいほどの思いをまるでわかってあげないドSに対して、いつまでも思い続けるドMの純情」というのが、もう宮崎さんの一番の泣きポイントなんだよね。
それは、高畑勲に認められたくて、でも相手にしてもらえない宮崎駿自身とやっぱり重なってくるからなんだよ。
しかし、高畑勲はそんな宮崎駿の思いを知ってか知らずか、この『平成狸合戦ぽんぽこ』を、どんどん宮崎駿を傷つけるような作品にしてしまうんだ。
宮崎駿はこれが得意だよね。
本当は存在しない飛行機械とかさ、本当は存在しないような谷底とか、そういうのをものすごく上手く描くじゃん?
でも、高畑勲はそれを真っ向から否定する。
「嘘の世界を信じさせるファンタジーというのは、確かに、ちょっぴりだったら子供に与えたり、大人もそれを信じて気楽になるんだったらいいけど、こんなに世の中に溢れていたら逆に害毒ですよ」というふうに、高畑勲は『ぽんぽこ』の前くらいからずーっと言ってるんだよね。
たとえば、かつての夢のない世界、貧しい世界、戦後の世界とかだったら、アニメーションというのは子供に夢を与える役に立つ、いいものである。
しかし、今や街の中にファンタジーが溢れている。
親は子供にサンタクロースを信じさせようとするし、ディズニーランドの宣伝は「いつまでも夢を忘れずに信じよう」と言っている。
「世の中のみんな痩せててひもじかった頃には、砂糖や甘い物がよかったかもわからないけども、今さら砂糖をドカドカ入れたものをこんなに作ってどうするんだ?」と。
でも、もう、甘い物中毒になっちゃってるみんなは、「甘い物、甘い物! ファンタジー、ファンタジー!」って求めてしまう。
何より、宮崎アニメこそ、すごい技術・才能によって、見てる人がその存在を信じてしまうという、超一流のファンタジー。
それに対して、高畑勲はこの『ぽんぽこ』で「NO!」と言ったわけだ。
人間たちに「面白かったね」と言われるだけなんだ。
狸にとっては「この妖怪大作戦をすることで、人間たちが多摩ニュータウンを作るのを止めるはずだ」と期待してたんだけども、そうじゃなくて、ただ単に人間に「面白いね」と言われるだけだった、と。
「宮崎さん、ありがとうございます。うちの子は『ラピュタ』をテレビで見せていると、いつも大人しくていい子になるんですよ」って、こんなことが起きてしまう。
そして、高畑さんの「自分の映画のキャラである “タエ子” は、この百鬼夜行の中でも時代に沿ってちゃんと進んでいるのに、宮崎キャラだけは時代に逆行するかのように反対方向に進んでいる」という描き方。
これは「俺のキャラは少なくともファンタジーだけでなく、現実というのを踏まえているから前へ進んでいるけれど、お前のキャラは結局、全部 後ろ向きだ!」という言い方なわけだよね。
「え?!それってどういうこと?」「そこのところ、もっと詳しく知りたい!」という人は、どんどん、質問してみて下さい。
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