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「【『億男』の感想とお金の話 1 】 “やりがいのための仕事” が “金のための仕事” に切り替わる瞬間を描こうとした意欲作」
川村元気さんという人が書いた小説で、映画化もされた本です。
僕が持っているのは文春文庫版なんだけど、今、主演俳優さんによってのバージョン違いとかもあって、今、2,3種類くらい別のカバーが出てるんだよな。
しょうがねえな、どうしようかな。
その結果、奥さんと娘が出て行ってしまった。
娘とはたまに会えるんだけど、そういう時にも、折角の誕生日なのに何もしてあげることができない。
3億円を貰って、銀行に行ったらちゃんと換金も出来たんだけど、何をしていいのかわからない。
とりあえず、いつも食べてる牛丼屋に行って、大盛りを頼んで、その他にも味噌汁と卵とお新香、サラダもつけて食べたんだけど、「これが、あんなに自分が欲しかったお金のある生活なのか?」と自問自答することになった。
そういう描写があるんだけど。
こういったカズオの主観の描写がすごく秀逸なんだよね。
シチュエーション自体は「貧乏人がいきなりお金を持って困惑する」という話なんだけど。
それまでに、主人公の主観で「今、お金がないのがどんなに辛いか。この場合、辛いというのは、自分が辛いんじゃなくて、他人に何かしてあげられないことが辛いんだ」ということを、ずーっと書いているんだ。
ここでの「牛丼屋に行って大盛りを頼んで~」という行動自体は、小説のアイデアとしてはわりと安直なんだけど、それを思いついた時、やってる時、後で「俺は3億円あったからといって、牛丼を大盛りにするくらいしか欲がない人間で、この欲のなさというのが自分が今失敗してる理由なんだろうな」と思い知る時のカズオの心情がものすごいリアルなんだよな。
これで勘の良い人は分かる通り、「カズオ」は「一男」なんだ。
そんな一の男が、ツクモという九十九の男に会う。
その次は「百瀬」という百の男に会って、次は「千住」に会って、「万左子」という、かつての妻に会って……と、一、十、百、千、万というふうに続いて行き、最後は億男になるという構成になっている。
しかし、ツクモは「いや、お前は何もできない。失敗するよ。なぜかというと、お前はお金の正体がわかってない」と言われる。
「お金の正体? それ、なんだよ?」と聞くと、「ああ、じゃあ、それを今から教えてやるよ」と言われて、一緒にパーティをやって、3億円をツクモの部屋に置いたままドンチャン騒ぎするんだ。
ツクモどころか、3億円もない。
ツクモに3億円持って逃げられた。
「一度は手にした3億円を持っていかれて、俺はどうしていいかわからない!」ということで、主人公のカズオは、ツクモのかつての友達であった人とか、もしくは一緒に仕事してた人達に次々と連絡を取りながら、一人ずつ会っていくことになる。
彼女は、今はお金を憎みながら、お金と離れられない夫婦生活を送っている。
次に会いに行った百瀬は、なんか競馬をやっててギャンブルに夢中なんだけど、ここでは「なぜ自分がギャンブルをやっているのか?」という、わりと深い話が入ってくる。
そういう旅をずーっとしながら、最後は…
…まあ、大丈夫だよね。
これからオチを話すんだけど。
「え? あの財布はどうした?」と聞くと、「何言ってんの? 夢でも見てたんじゃないの?」と奥さんに怒られる。
「じゃあ、昨日のどドンチャン騒ぎの金をどうしたらいいんだ?」「もう頭下げるしかないよ」と、奥さんに尻を叩かれて、いろんなところに頭を下げて、ただでさえ借金まみれだったのに、ドンチャン騒ぎの借金まで背負っちゃった。
すると、その男の人は……っていうような、人情味のある江戸話なんだよね。
よし、いいだろう。
・・・
だから、もう、ミスリードなの。
この本の最大のポイントは、そこなんだよね。
それは他人に喜ばれるからお金が生み出されるわけなんだけど。
だけど、最初は「こんな仕事がしたい」ということが、いつの間にか、「こういう仕事をして儲けよう」というふうに、利益やお金そのものが目的になっちゃう。
この小説では「最初の目的は “仕事” だったのに、途中から “仕事で得られる利益” が目的になっちゃう」という、その瞬間を描いている。
少なくとも描こうとしてるんだ。
だから、そこが書ききれていないので、お話全体が最後の方で横滑りしてしまう。
そこは残念だけど、十分面白い本です。
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