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「“火垂る” という言葉の意味と高畑勲が作品に込めたテーマ」
つまり、「これから相手に自殺攻撃をかける飛行機だ」と言うんです。
すると、節子が「蛍みたいやね」と言うんですね。
このように、この作品においての蛍というのは、明確に “死ぬ直前に最後の光を放つ存在” として描かれているんです。
こうやって、二人が蚊帳の中に蛍を放した後、構図がロングになるシーンがあるんですけども。これがもう、すごく意地悪なんですよ。
両脇にある柱の梁が、ちょうど斜めに掛かっていて、いわゆる葬式の時に出す “遺影” のようになっているんですよね。
だけど、この夜の海上で光に包まれた連合艦隊の “摩耶” という船は、実は、このお話の1年近く前に沈んでるんですよ。
「死に行くものだからこそ、光り輝いて美しい」というような描かれ方をしているんですよ。
このシーン、あまりのかわいそさに泣いちゃう人も多いんですけども。
でも、これが本当にかわいそうなシーンだとしたら、なぜそこで大量の蛍の死骸なんていう絵を見せるのか?
もちろん、蛍という生き物は、光を放ち始めたら数日間で死ぬ運命なんですけども。
だからといって、自分たちの慰めのために、蚊帳の中に閉じ込めて、自由を奪っていいという理由にはなりませんよね。
そして、「蛍、かわいそうやから、逃してあげよ」なんて発想は、別に節子にもないんですよ。
これが “火垂る” です。「火が垂れ落ちてくる」から「火垂る」と書く。
この火垂るについても、蛍と同じく「生命が燃えていて、綺麗だね」という視点で見てるんです。
節子と清太は、蛍を蚊帳に放ち、翌日、そのお墓を作るという、美しくも残酷な遊びをしています。
この作品では「人間から見た、空襲による火垂るの風景」も、「蛍から見た、自分たちを不条理に扱うこの兄妹」も、等しく “残酷で美しい” というふうに描いてるんですね。
だからこそ、高畑勲は何回も何回も「このアニメは戦争反対がテーマではない!」と言い続けているんです。
なぜかと言うと、どんなにツラい光景を見せて「こんなツラい思いは絶対に嫌だ」と思ったからといって、人間は「だから、戦争はしないぞ!」なんてことにはならないからだ。
そういう時、人間というのは「こんなツラい思いをしないためにも、やっぱり “軍事力” が必要だ!」と考えるものだ。
同じように、日本というのも「こんなツラい思いをしないためにも、すぐそこにある脅威に対して、軍隊を持った普通の国になろうよ!」と言い出す国だ。
それが日本であり、それが日本人である。
こんなふうに、高畑勲はハッキリと何度も言ってるんです。
「決して切り開くことが出来ない(戦争という)状況の中で、死ななければならない心優しい現代の若者」の姿です。
現代ではデジタル機器が発達し、煩わしい社会生活から離れ、ある程度自分の世界に籠もることも可能になった。
そのような時代であればこそ、清太の心情が分かりやすいのではないか。
兄妹だけで小さな家族を作ろうとしている清太に、社会的なつながりを煩わしく感じる現代の若者との類似的なつながりを見出しているということを。
しかし、戦時中ではその社会的なつながりを排して、兄妹だけで生きることは叶わなかった。
そこに悲劇があるとも言えるのです。
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「ちゃんと “頭を下げて” お願いすれば、こんなご飯がない時代にも、なんの見返りもなくおにぎりをくれるような人がいるんだよ」ということを、一番 最初に見せてるんですね。
だから、清太がこうなったのは、戦争のせいでもなければ時代のせいでもないんですよ。
そして、そういう言い訳が出来ないように、高畑勲監督は、冒頭でハッキリとこういうシーンを見せた上で語り始めているわけですね。
「戦争が悪い」とか「貧しさが人の心を荒ませた」という話ではないんです。
あとは、あんなに清太が会いたがってたお父さんも、出てきていいはずなんです。
もう死んでるんだから。
だって、親子4人で桜の下で写真を撮っているシーンがあるんですよ?
「彼らには、死ぬことしかなかったんですね」という話なんだったら、最後には父親も母親も出てきて、親子4人が揃うのでもいいはずなんですよ。
僕は、これこそが本作品のテーマの1つだと思うので、もう時間もないですけど、みなさんのコメントでの自由解答を待ってみようと思います。
いや、生きてない生きてない(笑)。
それもない(笑)。
「なんで今までそこに気付かなかったんだ……」(コメント)
そうですね。これ、あんまり気付かないですよね。清太と節子の2人の話として見てるから。
「清太の贖罪、エグい話だから」(コメント)
アハハ(笑)。
お、なかなか良い線を突きますね。
「清太というのは、困難な状況下でも、自分の生きたいようなやり方で生き抜いた」。
これがこの作品のテーマの1つだと思うんですけど、そうしたからこそ、母親のいる天国には行けないんです。
かといって、地獄にも行けない。
こういう状況を、ダンテの『神曲』では “煉獄(れんごく)” というふうに呼んでいます。
煉獄というのは、天国に行けなかったんだけど、地獄にも落ちなかった人の行く中間的な場所で、カソリックでは「ここで、苦痛によって罪を清められた後、天国に行く場所」と定義されています。
まあ、これに関しては宗派によっていろんな解釈があるんですけども。
これは、かなり冷たい描き方なんですけども。
「清太は精一杯生きたんだけど、その結果、自分の最後の苦しみというのをずーっと見せられている。気の毒なんだけど、もう彼は、それを繰り返すしかないんだ」と表現しているんです。
そうやって、“煉獄に閉じ込められた少年” というふうに冒頭から描いているんですね。
だから、冒頭の一番 最初のシーンを現代の三ノ宮駅から始めたんです。
すると清太は、一度、観客の方を真っ直ぐ見てから、神戸の街へ目を移すんですね。
この時の清太は、僕らに対して何を訴えているのか?
なんで節子が起きている時には、こっちを見ないのか?
実は、節子が起きている時には、清太は僕らを見ることが出来ない理由があるんですね。
これが、後半の限定放送で語る最大の謎解きです。
実は、この理由というのが、たぶんこのアニメの中で一番怖いところだと思います。
後半では、それについて語ってみたいと思います。
今のうちに言っておきますけど、後半では、すごく怖い話をしますから、覚悟しておいてください(笑)。
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