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「『カリオストロの城』前史 【2】 監督 宮崎駿の転換期」
そして、『アルプスの少女ハイジ』の準備をし、それが放映される、という流れになるわけです。
さて、『アルプスの少女ハイジ』と『母をたずねて三千里』をやったところで、宮崎駿は、自分のアニメーターとしての生き方に疑問を覚えるんですね。
どんな仕事をする時も、自分が「これは面白い!」と思ったシーンを、圧倒的な画力とイメージ力で、まず絵にしてしまう。
それを上の人間に見せると、監督も、それを採用せざるをえない。
すると、そのシーンを入れるためにストーリーが全部 変わってきて、作品が自分のものになっていく。
高畑勲に、いいように扱われてしまったんですよ。
それまでは、高畑さんが「こういう作品を作ろう」と決めたことでも、宮崎さんがそれよりも良いイメージボードを描いてきたら、「それカッコいいじゃんか! 出そうよ!」ということで、どんどん変えてもらえた。
そして、高畑勲というのは、本当に原作を大事にする人なんですよ。
そこを曲げなかったんですね。
結果、この2つの作品を作るにあたって、宮崎駿はものすごく働いたんだけど、それはあくまでも高畑勲のイメージを膨らますための道具として使われることになりました。
もちろん、本来の関係性で言えば、これは本望なことのはずなんだけども。
これまでのわがままを言えた立場からは変わってしまったんです。
僕も昔、SF大会とかをやっていた時に、トップに立つのがすごく嫌だったんですね。
実行委員長とか、代表とかになるのがすごく嫌で。
そうじゃなくて、「2番目か3番目くらいで好きなことを言っていて、上の人にそれを採用させる」というのがすごい好きだったんですよ。
後で聞くと、赤井孝美もそれが大好きだったそうで、赤井孝美は僕に対して、「こういうふうにしましょう!」ってやっていたわけですね。
あとは、山賀もそうなんですけども(笑)。
やっぱり、みんなそうなんですよ。
「一番上に社長とかプロデューサーというのを置いて、散々わがままを言って、採用されたらラッキー、採用されなかったら文句を言えばいい」というポジションが、やっぱクリエイターというのはすごく楽なんですね。
その結果、1977年にNHKから『未来少年コナン』というアニメの話が来た時に、宮崎駿は自ら監督をすることに乗り出したんですね。
「自分はこのまま1スタッフになってしまうのか? 自分がやりたいイメージを映像化するには、やっぱり自分が監督をしなきゃダメだ!」ということで、77年に『未来少年コナン』というのを作ります。
というのも、監督をやると、友達が描いたカットにボツを出さなくてはいけないんです。
具体的に言うと、それまでずっと親友として一緒にアニメーションを作ってきた年上の大塚康生が描いたカットにも、ボツを出さなきゃいけない。
これ、大塚さんは、真剣に「ラナを描かせてくれ」って言ったんですけど、宮崎駿は「ラナだけは俺が描く!」って言って描かせてくれなかったんですよね。
「え?!それってどういうこと?」「そこのところ、もっと詳しく知りたい!」という人は、どんどん、質問してみて下さい。
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