─────────────────────────────
「『ゼルダ』の世界を歩いてみよう! 『ブラタモリ』的なゲームの楽しみ方・前編」
戦国時代の話とか日本の歴史を知らなくても、まあ、遺跡を見ているだけで、なんとなく面白いのがブラタモリという番組。
それと同じように、今回は「ゼルダというゲームがいかに面白いか?」ではなく、「ゼルダという世界が、どういうふうに見れば楽しいかのか?」という話をやってみようと思います。
日本人がこういったSFとかファンタジーモノを作ろうとした時に、西洋的なイメージばかりを持ってくると面白くならない。
そこで、こういった火焔式土器のようなイメージを持ってきたところが、やっぱり、宮崎さんのすごさだと思うんですね。
『ゼルダ』についても、ファンタジー世界に火焔式土器をそのまま持ってきたのもすごければ、さらに、それを上下逆にして脚を生やして、ゲームの世界の中で動くロボットとして使ってしまうというところが、見せ方として上手いなと思ったんですけどね。
でも、これでは、あくまでも“ゲームとしての『ゼルダ』を楽しめている人”を対象とした話になっちゃうんですね。
なので、切り口を少し変えてみようと思ったんです。
なぜかと言うと、ゲームというのは映画みたいに深いテーマを語ることが出来ないメディアだからなんですね。
前回、前々回に『ラピュタ』を扱ったんですけど、なぜ、あんなふうに語れたのかというと、みんなが気がついていないテーマが作品の中に、いっぱいあったからなんです。
だから、「宮﨑駿がやろうとしていた事を、僕らは、案外 気がついていないよ」っていう話も、いくらでも出来たんですよ。
そのかわり、“語り口を狭くする”ことが出来るメディアなんですね。
つまり、「場面転換というものをほとんどせずに、パズーが自分の体験を通して目にした光景だけで、全てのストーリーを語りたい」ということなんですけども。
やっぱり、それで映画を作るのは無理があるんです。
ところがゲームというのは、語り口を狭くすることで、「その世界を見せる」ではなく、「その世界を体験させる」ということが出来るんです。
それまで見えていたものから別のものを見せようと思うと、その度ごとに主人公を移動させなきゃいけなくなるから、映画みたいに簡単に場面転換するわけにもいかない。
今では、それをやめて、全て手描きでアニメを作ると言っているんですけども。
さらに、その作品を通じて、世界に与える影響も大きい。
アニメ界だけでなく、映像作品としてもそうですし、体験モノとしても、明らかに次のステップにいける作品になると思うんです。
なので、「宮﨑駿は、ゲーム開発をすべきだな」って思ったんですけど。
本当に「ナウシカがいなくなった100年後の世界」なんですよ。
ナウシカの子孫であるゼルダ姫は、トルメキア城に捉えられて逃げることが出来ない。
そんな中、主人公のリンクという少年は、全ての記憶を失った状態で目覚めてしまった…
…という話で考えると、すごくわかりやすいんです。
今回のゼルダのストーリーにおける最大の肝は100年前の大戦争なんですよ。
これはクリアして初めて持てる視点なんです。
僕もゲームを攻略している最中は、なんかもうゲームを進めることで頭がいっぱいになっていたんですよ。
「とりあえず良いアイテムを入手したい!」みたいなことだけを考えて、冒険の中で訪れる遺跡なんかも、急いで通り過ぎてしまっていたんですよね。
だって、最短で先へと進みたいわけだから。
そういうことを、クリアするまでの僕は『ゼルダ』の中でやってたんですね。
でも、『ゼルダ』って、そういうゲームじゃないんです。
もっと、アニメとか映画のように、というよりは、それ以上に深く読み込むべきものなんですね。
なぜかというと、ゲームをやっている時は絶対に、こんな事を思いつかないから(笑)。
というか俺ね、今の自分の中にある知識を持って、このゲームを最初からやりたかったって思ってるんですよ。
なので、まだこのゲームをやってない人も、僕のこの話を聞いた上で、ゼロからやった方がきっと面白くなると思います。
でないと、普通のゲームのつもりで進めちゃうから。
そうすると、たぶん、任天堂のスタッフが考えた世界の10分の1も楽しめないんですよ。
今日は、そういうふうに確信できたので、必要な予備知識としての『ゼルダ』というのをやってみます。
おまけに悪の側にも、復活したガノンとか、敵に乗っ取られてしまった巨大ロボットとか、殺人マシーンであるガーディアンなんかが肩を並べている。
これは“巨神兵”だと思ってください。
そんな巨神兵が何千何万とワラワラと現れて、人類を襲って、文明世界を破壊していくんです。
この100年前の大戦争こそが絵的に一番面白くなる場面なんですけども、ゲームの中で この部分は“昔語り”でしか出てこないんですよ。
つまり、『ナウシカ』のような「腐海で巨神兵が復活した! でも、王蟲が向こうからやってくる! さあ、どうなるのか!?」みたいな描写は、100年前、つまり、ゲームの中では描かれない所で、全て終わってしまっているんです。
だけど、それらの多くは、すごい映像を見せようとしちゃってるんですね。
そして、すごい映像を見せようとする限り、つまり「段取りに沿って絵を見せて行くことで観客の感情を揺さぶる」という仕組みで勝負する限りは、映画には敵いっこないんですよ。
すごい映像を見せようとすればするほど“ハリウッド映画の出来損ないみたいなゲーム”になってしまうと僕は思うんです。
僕は、このやり方ことが“体験を伝えるメディア”であるゲームとしては、最もふさわしいやり方だと思うんですね。
それに対して、ゲームというのは体験を伝えるメディアなんです。
こういった特殊な関係性があるからこそ、このゲームを体験することを通じて、リンクが少しずつ過去の出来事を思い出していくように、プレイヤーはこの世界を知っていく。
そして、その結果、100年前のものすごい出来事をありありと感じることが出来るようになるんです。
ゲームの中の世界で、走って、歩いて、ご飯を作って、矢を射って、野生の獣を獲って、また食って、悪いヤツと戦って…
…というふうにやっていくうちに、最初は単なるゲームのキャラだと思っていたはずのゼルダ姫に対して、「本当に会えた!」という気持ちが生まれるんですよ。
このゲームは“体験を伝える”ということに成功しているんです。
だからこそ、ゼルダ姫との本当に何気ない最後のやり取りが、メチャクチャ重く、心に響いてくるんです。
ものすごく感動しますよ。
「え?!それってどういうこと?」「そこのところ、もっと詳しく知りたい!」という人は、どんどん、質問してみて下さい。
番組内で取り扱う質問はコチラまで!
コメント
コメントを書く(ID:6917824)
100年前の大戦が肝と言いながら、全く理解してない事は分った。
(ID:209400)
この人、物事について肯定的な話をする機能もついてたんだなぁ
(ID:4370173)
割と褒めてること多いと思うけどな