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船木誠勝、入江秀忠、馬場vs天龍、所英男、カール・ゴッチ秘話! インタビュー詰め合わせセット

2014/08/31 23:59 投稿

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■衝撃告白! 船木誠勝が語る90年代プロ格の時代「俺は真剣勝負をやるつもりはなかったんですよ」
■格闘家・桜井隆多は神様の弟子だった!「ゴッチさんがハーモニカを吹いて待ってたんです」
■元『週刊ゴング』編集長・小佐野景浩
「ジャイアント馬場vs天龍源一郎」とは何だったのか
■UWFと修斗の鬼っ子!キングダム入江秀忠が見た「総合格闘技が生まれた時代」
■ベラトール参戦!所英男「もう一度、人生を変えられる試合がしたいです」

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自分はすぐにでも格闘技にしないと、このUWFがやってることがウソになると思ったんです」

大好評「総合格闘技が生まれた時代」シリーズ。今回登場するのは新日本プロレス、新生UWF、藤原組を経て、パンクラスを旗揚げした船木誠勝! 格闘プロレスが総合格闘技にステップアップしていった90年代――そのプロ格運動の先導者的な立ち位置にいた船木だが、本人には青き理想はなく、流されて漂った結果、禁断の果実に手を出してしまったという……。


――今日は船木さんに「90年代の総合格闘技」についておうかがいします。


船木 90年ということは、ちょうど自分がヨーロッパ修行から帰国して、新日本からUWFに移籍した
年ですね。そこから『コロシアム2000』のヒクソン・グレイシー戦までの10年間。 

――まさしく90年代を生き抜いた格闘技人生ですね。それで、このシリーズでいろんな格闘家や関係者にお話を聞いてるですけど、新生UWFの中だと船木さんの名前がよく挙がるんです。

船木 ああ、そうなんですか(笑)。なんて言われてるですか?

――要するに革新性ですね。

船木 なるほど。あの当時の自分はまだ若かったし、いろんなことを言ったり、試したりしてたからじゃないですかね。

――船木さんは格闘プロレスが格闘技に転換するダイナミズムの真っ只中にいましたね。

船木 はい。俺はそれをやろうとしてましたから。あの当時ってプロ格闘技と呼ばれるものって少なかったじゃないですか。キックボクシングとボクシング、佐山(サトル)さんが立ちあげた修斗。その3つくらいですよね。

――船木さんがプロレスラーとして、総合格闘技への意識が高まっていったのは何がきっかけだったんですか?

船木 それはですね、新日入門当初にさかのぼります。道場でみんながセメントの練習をやっていたんですよ。

――セメントの練習ですか?

船木 関節技の極めあいですね。それが延々と繰り広げられていたんです。毎日11時から13時まで2時間のあいだ、かならず行なわれていたんですよ。

――それは全員参加なんですか?

船木 基本的には藤原(喜明)さんが中心となって、若手に教えていたんですけど。藤波(辰爾)さんや上のレスラーの方々もやってましたね。たまに猪木さんも参加したり。まあ若手に教えるというか、一方的に関節技をかけて逃げ方をおぼえる感じですね。

――当時のスパーリングはどんなやり方だったんですか?

船木 ヨーイドンで若手が亀の姿勢になるんです。もしくは上の人間が亀になって若手に攻めさせるんですよ。藤波さんはかならず亀になって「攻めてこい!」って言うですけど、何をやっても崩せなかったですね。藤原さんも最初は亀の姿勢なんですけど、途中で相手をひっくり返して上になって、いろんな関節を極めてくるんです。そのセメントの練習を初めて見たときに驚いたんですよ。それはいままでテレビで見ていたプロレスにはなかった光景なので。

――本当にガチガチの攻防だったんですね。

船木 だから本当にビックリしました。テレビで見ていたグラウンドの攻防って動きがあるものでしたから。受け身は大技を受けるために、プロレスラーとして必要な技術だとわかって練習したんですよ。ただ、セメントに関しては「これは何に使うんだろう……?」と。それくらい実際のリング上とはかけ離れていましたし、それに痛いし、苦しいし(苦笑)。

――意味もわからないままやられ放題で(笑)。

船木 でも、「コレを覚えないとプロレスラーになれないのか」と思いましたね。プロレスラーになるための必修科目だと思ったんです。先輩レスラーもみんなやってたわけですから。

――プロレスラーとして身につけるべきものという認識だけはあったんですね。

船木 それはつまり「強さ」ですよね。自分が入門したのは15歳だったじゃないですか。格闘技経験はまったくないわけですし、中学校で柔道さえもやってなかったですから。

――そんな状態で新日本の猛者たちとセメントの練習(笑)。

船木 あとになって全日本プロレスの渕(正信)さんとお話をしたときにわかったんですけど。新日本
と全日本では指導方針が極端に違ったんですよ。全日本は受け身重視です。渕さんが言うのは、練習で毎回受け身を1000本取らされていたみたいですね。

――全日本は受け身、新日本はスパーリング。

船木 はい。新日本はスクワットや腕立てを1時間やったあとに延々とスパーリング。それで最後に受け身を10本やって終わりです。

――10本と1000本じゃだいぶ違いますね。全日本は逆にスパーリングはやってなかったと?

船木
 してなかったみたいですね。必要だとも思わなかったみたいで。昔の全日本って馬場さんの考えのもと純粋なアメリカンプロレスをやっていたじゃないですか。レスラーはアメリカ修行に行って、アメリカンスタイルをおぼえて帰ってくる。一方で新日本の場合は日本での下積みが長いですから。そこでも猪木さんと馬場さんの方針は違いました。おそらく猪木さんはあえてその違いを作ったんじゃないですかね。

――それがいわゆるストロングスタイルですね。

船木 セメントの強さはカール・ゴッチさんの時代から、プロレスラーには求められていたそうなんですけど。でも、その強さだけではチャンピオンにはなれないし、かといって強さがないとバカにされます。プロレスラーはやっぱり闘いを見せてるわけじゃないですか。闘いを知らない人間が闘いをできのるかってことなんですよね。

――当時の新日本では、セメントが強い人間は一目置かれていたわけですか?

船木 はい。藤原さんなんか上の人間はへんに触らなかったですね。

――強さがないとナメられてしまって、上のポジションで使ったもらえなそうですね。

船木 無理ですね。強くないとバカにされる世界ですから。だから自分も強くならないといけないって思いました。

――プロレスではときおり試合が崩れるというか、不穏な内容になったりしますね。たとえば藤原組時代の鈴木みのるさんがSWSでやったアポロ菅原さんの試合とか。

船木 はい。あのときは「いったい何をやってるんだろう?」と最初は戸惑いましたね。だから控室に帰ってきた鈴木に怒りました。「なんでちゃんとした試合をやらないんだ!?」って。そうしたら「向こうが先に指を折りにきたからやり返したんです」と。最初から菅原さんは普通に試合をする気がなかったんですよね。ただ、それにしてもダラダラとやってたじゃないですか。だったら、とことんやるべきなんですよ。

――徹底的に潰すべきだった、と。

船木 鈴木は鈴木で「試合を成立させたかった」と言うんですけど。あのあとアポロさんと話をしたんですけど、「もう過ぎたことだから」って感じでぜんぜん気にしてなくて。

――仕掛けた菅原さんとしてはもう気が済んだんでしょうね。

船木 試合中にああいうことにもなりかねいので、プロレスラーは強さが必要なんだなと思いますね。

――船木さんは仕掛けられたことはありますか?

船木 自分はないですね。まったくないです。ただ、ちょっとかたちは違うんですけど、パンクラスのときに外国人選手が反則を……。

――キース・ベイゼムス戦ですね。

船木 そうです。そのときのパンクラスは掌底ルールだったのに試合前の控室で「パンチで船木をノックアウトしてやる!」と予告してたんですよ。それを(ケン・)シャムロックに言ってたんですけど、シャムロックはこっちの人間じゃないですか。自分にチクってきたんですよ(笑)。

――ハハハハハハ! ケンシャムというスパイ(笑)。

船木 普通に試合をしたら自分に勝てないと思ったらしいですね。「反則負けでもやってやる!」と言ってて。だから試合中は顔面パンチに気をつけて闘ってました。わかっていればよけれますから。それで投げて倒して関節技でギュッと。

――船木さん、あのとき相手がタップしてるのに簡単に外さなかったですよね。

船木 そんときは本気ですよ。戦争モード。

――怖い(笑)。

船木 もしも一発パンチが顔に入って自分がノックアウトされても、「すぐに相手をリング上でボコボコにしろ!」という指示をセコンドに出してましたし。

――ええええ(笑)。

船木 そうすれば、試合で負けてもこっちの勝ちなんです(淡々と)。

――なるほど。セコンド同士の乱闘といえば、新日本vsUFO対抗戦の橋本真也vs小川直也で試合が崩れたときに起こりましたけど……。

船木 あのときも新日本側はもっと綿密に打ち合わせをしておくべきなんですよ。不穏な動きがあったわけですから「もし橋本がやられたらセコンド全員で小川を潰す」とか。だって人数は新日本のほうが多かったわけですから。ちゃんと準備しておけば絶対に勝てましたよね。

――試合でも負けたのに、その後の乱闘で叩き潰さなかったらさらにイメージが悪いということですね。まあUFO軍団には、ただでさえおっかないジュラルド・ゴルドーが鉄の棒を持って待機してたんですけど(笑)。

船木 あそこでやっておかないから橋本選手の引退までの流れができちゃったじゃないですか。新日本がそこまで考えてなかったのか、もしくは橋本選手がみんなに「大丈夫だ」と言っていたのかもしれないですけど。

――あのとき橋本さんは新日本の現場監督だった長州さんと折り合いが悪かったんですよね。方向性を巡ったトラブルで無期限出場停止処分が下されたのに、なぜかあの小川戦だけは出ることになっていて。

船木 ああ、そうだったんですか。それはもったいないです。

――特殊な試合でいえば、高田さんと北尾(光司)さんの試合も崩れましたね。高田さんがハイキックで北尾さんをKOして。

船木 あれは途中から高田さんがハイキックを狙ってましたよね。

――ローで散らして北尾さんの意識を下に向かわせて。

船木 北尾選手の油断でしょうね。狙ってるのなら察知しないといけないですし。だからプロレスは強い人がやらないとダメなんです。やっぱり人間同士が蹴り合ったり、殴りあったりするじゃないですか。そこにウソはないですから。そういう意味で、あの当時の新日本の道場でやっていたことは正解だったと思いますね。

――たとえば道場破りに遭遇したことはあったんですか?

船木 道場には来なかったですね。ただ、地方巡業のときに何人か入門希望者が来たんですよ。それで自分が2回やりましたね。

――やったというのは?

船木 セメントです。

――えっ、入門希望者と!?

船木 はい。山本小鉄さんから許しが出るんですよ。「気を使わなくておもいきりやっていいぞ!」って。

――要はプロの厳しさを教えるというか……。それって何歳くらいのことですか?

船木 17歳の頃ですね。

――17歳の船木少年は、その小鉄さんの言葉をどう受け止めたんですか?

船木 「いつも練習してる成果をやっと試せるな!」と。うれしかったですね(ニッコリ)。

――ハハハハハハハ! 恐怖感はなかったんですか?

船木 恐怖感なんてないですし、ホント楽しかったですよ。あとドイツ遠征してるときにも同じようなことがあって。オットー・ワンツというプロモーターのところに「プロレスラーになりたい」という柔道家がやって来たんですよ。ワンツからすると、日本人レスラーはみんなセメントができるという認識だったんでしょうね。「フナキ! 明日の朝、ちょっと来てくれ」と頼まれて。スティーブ・ライトとミレ・ツルノの3人が駆り出されたんですよ。

――名うてのレスラーたちと!(笑)。

船木 あれは19歳の頃ですね。そのときも「また試せるチャンスが来たな!」という感じでうれしかったですね。

――ちなみにどんなルールで闘ったんですか?

船木 打撃なしです。立った状態から組み合って、投げて転がして関節を極めて。「バリバリッ」って音が鳴るまでやりました。捻挫くらいはしたと思いますね。

――17歳の少年がやることじゃないですよね(笑)。

船木 でも、そういう機会でもないと自分の力を試せないんですよ。道場で先輩とやるとどうしてもやられっ放しで。入門が1年違うだけでだいぶ力は違ってきますから。

――それに同期入門とはいえ武藤(敬司)さんはだいぶ歳上でしたし、柔道有段者でしたね。

船木 武藤さんは最初から強かったですよ。藤原さんとそんなに変わらないくらいの強さで。

――あ、新弟子の頃から! 

船木 入門したばかりなのに藤原さんに簡単には極められませんでしたから。そうなると先輩レスラーも武藤さんに一目置くんですよね。「……アイツは強いぞ」と。だから武藤さんがうらやましくて仕方なかったですね。いちおう同期ですから「いいなあ。最初から強くて」って(笑)。

――ハハハハハハハハハ!

船木 それに武藤さんは半年くらいでデビューして、その半年後には海外修行に出されてますから。自分と同じ新弟子だったんですけど、別格の存在でした。エリートですよね。

――船木さんはそうやって強さに傾倒していったんですね。

船木 あの頃の自分は「強さ、強さ、強さ!」しか求めてなかったですね。強くなれば上に行ける、と。 

――船木さんが堀辺正史先生の骨法に熱心に通われていたのも強さのためですか?

船木 骨法はですね、後楽園ホールの試合前に藤原さんとスパーリングをしていたんですけど、首投げをやらてて首を捻挫したんですよ。そのまま試合を欠場したら、猪木さんが「いい整体の先生を知っている」と紹介してくれたんです。

――それが堀辺先生だったんですか。

船木 はい。それで首を治すために2週間近く東中野の骨法に通っていたんですけど、「武術もやってるから見学をしていきませんか?」と誘われたんです。そうしたらフルコンタクトで激しくやっていて。あのときは第一次UWFが解散して新日本と業務提携してたじゃないですか。自分はUWFの若手だった安生(洋二)さんや中野(龍雄)さんとよく試合をやっていて、打撃の必要性を感じていたんですよ。立って殴る蹴る技術をおぼえたかったんですね。

――ライガーさんも一緒に通ってましたよね?

船木 ライガーさんを誘ったのは俺なんです。ひとりで行くのはつまらなかったので(笑)。

――あ、巻き添えだったんですか(笑)。

船木 原付バイクに乗って毎日通いました。まず新日本の道場で3時間練習、昼ごはんを食べたら15時には東中野に出発して。それで骨法で16時から18時まで2時間やって食事休憩。19時から22時までまた骨法で練習。1日8時間もやってましたけど、まだ18〜19歳の頃ですから、一晩寝れば体力は回復して。年齢的にはまだ高校生ですよ。高校の部活と一緒ですよ。

――その頃の骨法には廣戸(聡一)さんと最上(晴朗)さん(こちらの記事をクリック)という指導員がいらしたんですよね?

船木 あ、そうです。あのふたりが本当に強かったんですよ。

――初期骨法はそのふたりが本当に凄かったという話を皆さんおっしゃるんですね。

船木 それこそ道場破りじゃないですけど、骨法に腕自慢が来ると最上さんが相手をするんですね。先生に「やれ」と命令されて。

――船木さんはその現場にいらしたんですか?

船木 はい。最上さんはまったく容赦なく相手をボコボコにして。

――うわあ、ホントに喧嘩芸だったんですね!

船木 さらに凄いのはボコボコにされた道場破りが、翌日には骨法に入会してるんですよね。

――倒した相手が仲間になるってバトル漫画の世界ですよ、それ(笑)。

船木 そんなのが何人かいましたよ。腕に自信がある人間が何もできずに負けちゃうわけですから、逆に尊敬しちゃうんでしょうね。自分もあのふたりがいたから骨法に通うことを決めたんですよね。見学したときにあのふたりがバシバシやりあってるのを見て「これを凄い!」と。

――船木さんが海外修行に行ってるあいだにそのふたりは骨法をやめられて。

船木 それで俺も通うのをやめたんですよ(笑)。

――あ、そうなんですか(笑)。

船木 あのふたりがいなくなるとレベルがぜんぜん違ったんですよね。

――一度そのふたりのスパーを見てみたかったですね……。それで船木さんは帰国後に新生UWFに参
加されましたね。

船木 海外に行く前からUWFに移る話は決まってました。要は“引き抜き”ですよね。でも、誘われる前に海外の団体の契約書にサインしちゃったんですよ。前田さんも高田さんも「海外遠征はいい経験になるから行って来い」と。

――UWFに移籍したのは格闘技を追求したかったからですか?

船木 いや、そういうわけじゃないですね。人間関係の近さです。新日本で藤原さんに稽古をつけてもらったり、前田さんや高田さんに飲みに連れてもらったりして。UWFのほうが自分を必要としてくれてるんじゃないか、新日本より一選手として考えてくれてるなと思ったんです。それで誘われたら二つ返事ですよね。新日本は自分ひとりいなくなっても困らないだろうと思いましたし。長州さん、藤波さんがいて、武藤さん、蝶野(正洋)さん、橋本(真也)選手もいる。自分ひとりくらい若手がいなくなっても大丈夫だろうと思ったんですけど、猪木さんに引き止められましたよね。3日間にわたって話をしましたね。

――猪木さんがそんなに時間を割いて説得するって凄いですね。

船木 いや、説得でもないんですよ。これから新日本プロレスが展開していく世界戦略の話ばかりで。

――猪木さんお得意のロマンあふれる世界戦略プロジェクトですね(笑)。

船木 「ラスベガスで異種格闘技戦をやって賭けの対象にする。そこで日本人選手が必要だからそっちをやってくれ」と。でも、なんか具体的じゃなさすぎて(笑)。

――ハハハハハハ! ジャッキー・チェンとの試合も提案されたんですよね

船木 そうですそうです。自分の顔を売るために東京ドームでジェッキー・チェンとエキシビジョンマッチをやって、そのあとにロブ・カーマンと異種格闘戦という話もされましたね。でも、夢過ぎて(笑)。

――早すぎたUFO構想……というか、いまだに実現してないんですけど(笑)。

船木 自分としてはまったく夢のまた夢で。UWFのいち選手のほうが現実的ですよね。猪木さんは最後には「巡業に行かなくていい」とまで言い出して。でも、そんなことやったら会社の人や先輩レスラーに怒られるじゃないですか。

――それはのちの小川直也や藤田和之に与えた待遇ですね。

船木 残っても新日本に居づらくなるので、UWFに移ったほうがいいなと思いました。でも、UWFに行ってみてわかったんですが、あそこまで格闘技寄りになってるとは思いませんでした。自分はちょうど海外に行っていたのでUWFの映像が見れてなかったんですよ。『週プロ』や『ゴング』に載った試合写真しか見れてなかったですけど。蹴って投げて極めるだけのスタイルになってるとは思いもしませんでした。

――船木さんが格闘技の世界に飛び込みたかったんじゃなくて、行ってみたら格闘技スタイルになっていたという。

船木 そうなんです。自分はたしかに強さは強さで求めてましたけど、スタイルを格闘技にするという発想はなかったです。

――新生UWFの頃って船木さんがイライラしたり、苦悩しているイメージあったんですけど……。

船木 はい。してましたね(苦笑)。

――それはもっと格闘技に振り切りたくてイライラされていたじゃなかったんですか?

船木 そうじゃないんです。UWFが格闘技スタイルに寄りすぎちゃってて最初から「?」マークがあったからなんです。それでUWFのときに骨折して半年くらい休んだことがあったんですけど。そのときにボクシングのビデオをいっぱい見たり、骨法を飛び出して小林千明さんという東洋太平洋のチャンピオンにボクシングを習ってました。そうしてるうちに、UWFをやるのであればもっと格闘技に近づけないとダメだと考えたんですね。

――中途半端ではなく。

船木 いままでのプロレスのないかたちにするのであれば「もっと格闘技にするべきだ!」と。それを前田さんに言ったら「3年待ってくれ」と答えてくれたんです。

――前田さんはまだその時期ではないと判断されたんですね。

船木 いきなりそこまでやっちゃうと、メシは食えないというのが前田さんの考えだったんでしょうね。でも、自分はすぐにでも格闘技にしないと、このUWFがやってることがウソになると思ったんです。

――改革と革命の違いがそこにあったのかもしれないですね。前田さんたちはそこまでやるつもりはなくて。

船木 俺は本当の革命にしたかったんでしょうね。自分も若かったですから。「早くやらなきゃ!」と。モタモタしていたら自分も歳を取っちゃうから。

――ちなみに新生UWFの道場はどんな練習だったんですか?

船木 新日本と一緒ですよね。基礎体をやってひたすらスパーリングです。あとは各自出稽古ですよね。

――前田さん、高田さん、山崎さん、藤原さんたちの足がUWF道場から遠のいって行ったのは本当ですか?

船木 ホントたまに来るくらいですよね。若い選手は毎日来てました。

――若手の中でも中野さんだけは単独行動だったんですよね?

船木 中野選手は他人とぜんぜん関わらなかったんですよ。自分なんかが夜18時頃に練習が終わって帰るときに中野さんがやって来るんです。

――夜中に新弟子と練習するんですよね。

船木 あと中野選手も小林さんにボクシングを教わってたんですよ。自分はジムに通ってたんですけど、中野さんは自分のマンションの屋上に小林さんを呼んで練習をやってたらしいんですよ(笑)。

――マンションの屋上で(笑)。ホント他人には見られたくなかったんですね。 

船木 道場で中野選手はお腹にサランラップを巻いて練習してて、帰るときにそのサランラップをリング上に置いていくんですよ。つまり「俺も練習をやっていったぞ!」という痕跡を残すんですよね(笑)。

――ハハハハハハ! どんなサインなんですか(笑)。

船木 朝、道場に行くとサランラップがリングに落ちてるんですよ。それを見て「あ、中野選手が来てたんだな」ってわかって。そういうやりとりもUWFならでですよねぇ(しみじみと)。 

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