日本に2人しか存在しないミゼットレスラーのひとり、プリティ太田インタビュー。かつて全日本女子プロレスの前座で会場を沸かせに沸かせたミゼットプロレスだが、選手不足もあり試合機会は減少していった。現在は通常のプロレスの試合もこなしているプリティ太田のいままでと、これからをうかがいました!
――いま日本のミゼットレスラーは太田さんとミスター・ブッタマンの2人しかおらず、ミゼットプロレスの試合機会がなかなか作れないということですが、それ以外に人権団体から「見世物として扱うのはいかがなものか」という批判もあって、メディアが取り上げづらい風潮があったんですよね。
太田 まあまあ、そうですね。昔からテレビにある批判なんですけど、低身長の方々を見世物にしていると。ただ「そうらしい」ってことなんですね。
――「そうらしい」ということは、太田さんはそういった経験はされてないと。
太田 ボクは知らないんですけど、昔の関係者から話を聞くと、そういう批判があったらしくて。映像のほうがなかなかテレビに出にくかったと。ボクもいまはテレビに出ていますけど、いまのところはそういったことはないです。徐々に規制が解け始めてるのかな……ってボクの中ではそう思ってますね。
――テレビ側が自主規制をしてたんじゃないかということですね。
太田 はい。ボクの中では自主規制だったんじゃないかって思うんですね。一時期テレビとかメディアってうるさかったじゃないですか。当時は何か抗議をされるのが嫌だったんじゃないですかね。
――いまは自主規制することへの批判のほうが大きくなりつつありますね。
太田 いまそんなことをやったら逆に「何をやってるんだ?」って話になりますよね。だから、どんどん表に出て「こういうプロレスがあるんだぞ!」ってアピールしたいんです。このままだとボクの代で、なくなっちゃうかもしれないので……。
――太田さんとブッダさんの後継者がいない。
太田 後継者を作るためには、とりあえずミゼットのことを知ってもらうことが一番なんで。いまは以前よりは存在自体は知られてきてると思うんですけど。
――じつは存在自体が消えかかっていた……ということなんですね。
太田 もう自主規制とかで消されることはないと思うんで、もっと取りあげてほしいですよね。
――昔は全日本女子プロレスの前座でミゼットプロレスは日常的に見られてましたね。
太田 ボクも中学の頃、全女でその存在を知って。プロレス自体は好きで、よく見てたんですけど、知らなかったんです。チケットを買って会場に行ったら、そういうプロレスをやっていて凄くビックリしました。
――そこで「自分もやってみたい」と思われたんですか?
太田 そうですね。やれればやりたいなって。そのときはリトル・フランキーさんと、全女のレフェリーをやってた村山大値さんから声をかけられたんです。最初は、ちょっかいをかけてきて(笑)。列に並んでるときから、ちょっかいを出してきてて。意味がわからなかったんですけど、凄くやさしくしてくれて。
――要はスカウト活動の一環だったというか。
太田 そういうことだったんでしょうね。
――太田さんがデビューしたのは20代半ばのことで、それからだいぶ時間は経ってますね。
太田 やりたかったけど、親の反対が……やっぱり危険じゃないですか。そこは低身長の人が通る壁なんでしょうけど、みんな親に反対されるみたいで。本人の「プロレスをやりたい!」という意志だけじゃ厳しいんですね。
――太田さんもやってみたかったけど、親の反対があったわけですか。
太田 そうですけど、ずっとやりたいと思ってて。とりあえず普通に働いていてもつまらなかったんで、親には「とりあえず1年やらせてくれないか」ってお願いして。それでやっと許可をもらったというか。全女は普通に受け入れてくれました。当時はブッダさんひとりしかいなかったんで、ボクが入ったことでひさしぶりに試合ができることになるので(笑)。
――太田さんは救世主だったんですね(笑)。じゃあすぐにデビューということなんですか?
太田 そうですけど、最初は(角掛)留造さんとブッダさんの試合を見て勉強するという話だったんですよ。でも、留三さんがドタキャンなのか、急にNGになってしまって。いきなりボクが試合をすることになっちゃったんですよ。
――えっ、いきなり?
太田 何も教わってないまま突然試合に出されて、よくわからないままやって。デビュー戦はうまくいったのかなあ……もう記憶にないです(笑)。
――試合はやりながら、おぼえていくという。
太田 基本的に、お笑いなんで。どうやったらお客さんを沸かすことができるのか。そこが一番重要で、あとは基本的な動きができればいいだけなんで。最初は何もわからないので、ブッダさんに任せっきりだったんですけど。
――プロレスって新人には厳しく当たりがちですけど、ブッダさんはどうだったんですか?
太田 優しかったのかな、いちおう。上から「あんまりイジメるなよ」的なことは言われていたのかもしれませんけど(笑)。
――いなくなったら試合ができなくなりますし(笑)。
太田 ボクが入るまでブッダさんひとりしかいませんでしたから、「新しい奴がきた!」ってことでネタにはなりましたし。
――どちらかがケガで欠場なんてことになったら……。
太田 そうなると大変ですよ。最初の頃はボクがケガしないように優しくしてくれましたけど、ボクはボクでブッダさんが倒れないようにしないとなって。
――毎日対戦相手が同じだとマンネリになりませんか?
太田 まあ、毎日ブッダさんだからマンネリはしますね(笑)。やってて飽きますよね、ネタも限られてきちゃうので。変わったこともそんなにできないですし。そういう意味では大変だったかなーって。
――新ネタを入れるタイミングってあるんですか?
太田 ブッダさんと話し合って「今回はここを変えません?」っていろいろとやりましたけど、基本は大きくは変らないんですよね。
――ブッダさんと何試合やったかは……。
太田 いやあ〜〜、もうおぼえてないですねぇ、さすがに(笑)。ボクがデビューした2004年からずっとですから、それなりにはやってますけど、チェックしてないですからね。いま思えばチェックしておけばよかった。
――『週プロ』もチェックしてないでしょうし。
太田 どうなんですかね……ボクらの試合結果は載ってない場合がほとんどだし、誰も取材してない団体とかでやってたりしますからね。
――念願だったプロレスの世界はいかがでした?
太田 最初の頃はいろいろとおぼえることがいっぱいあったので、楽しむどころじゃなかったんですよね。いまは会場に行けばいろんな選手に会えて楽しいですけど、当時はそんな余裕はなかったですから。試合と試合以外の仕事をおぼえるだけでいっぱいいっぱい。巡業のときは先に会場入りして、イスを並べたり、リングの設営を手伝ったり。
――当時の全女って景気はあまりよくなかったですよね。
太田 もう全然悪いですよ。下火でしたから、完全に。でも、やりたい職業に就けたから、あまり気にならなかったですね。
――目黒の全女ビルはまだあったんですか?
太田 入門を申し入れたときはありましたけど、そのうちなくなってましたね。それから事務所は転々とするようになって。
――倒産寸前の頃だったんですね……。金銭的に厳しい時期だったので、未払いもあったんじゃないですか?
太田 ギャラをもらえない日もあったり(苦笑)。
――とっぱらいなんですか?
太田 基本的に、とっぱらいです。
――失礼ですけど、額は……。
太田 5000円とか、それくらいですよ。凄く安かったです。ブッダさんはどうだったんですかねぇ。ちょっとアップくらいじゃないですかね。ブッダさんは社員でもなかったので。
――その額だと生活は大変だったんじゃないですか? 部屋を借りるのも……。
太田 いや、アパートを借りるお金もなかったので、茨城の実家から通いでしたね。地方巡業のときは全女が出してくれましたけど。
――なるほど。プロレスが好きじゃないとやれないですね!
太田 絶対にできないと思いますよ、これは(笑)。ブッダさんも好きでやってますからね。そうじゃないと、あんなに長くはできないですよ。
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