プロレスラーの壮絶な生き様を語るコラムが大好評! 元『週刊ゴング』編集長小佐野景浩の「プロレス歴史発見」――。今回のテーマは全日本プロレス一筋、渕正信です!
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――今回のテーマは全日本プロレス一筋、渕正信選手です!
小佐野 私が渕さんを初めて取材したのは、渕さんの海外武者修行先だったテネシー州ナッシュビルなんですよ。私は大学生のときから『ゴング』で仕事をしていたんですけど、1981年の夏にアメリカのテリトリーを3週間回っていて。ナッシュビルに行く前はダラスにいたんです。
――フリッツ・フォン・エリックの鉄の爪王国ですね。
小佐野 そのときはカブキさんがメインイベンターで、上田馬之助さんも「テングー」というリングネームで試合に出ていて。興行が終わったあと上田さんに車でダラスのバス停まで送ってもらって。そこからバスの中で一晩過ごしてナッシュビルに着いたんです。
――旅慣れてる感じがしますね(笑)。
小佐野 アメリカのプロレスが好きだったからどこにどの州があるのかはだいたいは知っていたけど、距離感はまったくわからないですけどね。『地球の歩き方』を一冊持っていただけで、目的地に着いたらイエローページで現地のホテルを調べて電話するか、飛び込みで部屋があるか聞いて。ナッシュビルに着いてからは渕さんと大仁田さんが移動からメシからすべて面倒を見てくれたんです。泊まるところも彼らのアパートだったし。
――初めて会った渕さんにはどんな印象が抱きました?
小佐野 私は『ゴング』に入る前は新日本プロレスのファンクラブをやっていたから、全日本より新日本のレスラーのほうが詳しかったんですけど。渕さんは新日本のレスラーっぽかった。
――どういうことですか?
小佐野 思考が新日本のレスラーに近いんですよ。会話してみると「ギャラが貯まったら、そのうちバーン・ガニアのレスリングキャンプか、フロリダのゴッチさんのところで練習をしたいんだよね」って言うですね。
――大仁田さんとは違ったんですか?
小佐野 大仁田さんはパフォーマーとしての自分を磨いていったから。アメリカンプロレスを研究したのが大仁田厚、レスリングを学んでいたのが渕正信。当時の2人はマサ・フチとミスター・オオニタを名乗っていて、ヒールとしてAWA南部タッグチャンピオンだったんですけど、試合のときは必ず渕さんが先発。なぜかといえば、どんなヒールでも先発で出たら必ずレスリングをやるでしょ。渕さんはレスリングをやりたいから先発だったんです。
――そんな渕さんが全日本に入団したのはどういう理由だったんですか?
小佐野 それは馬場さんの大ファンだったから。渕さんはもの凄いプロレスファンで、当時のプロレス雑誌『プロレス&ボクシング』や『ゴング』なんかも当然読んでいて。八幡大学付属高校では陸上部だったんだけど、3年のときにレスリング部に駆り出されて県大会に出たらいきなり優勝しちゃったそうなんですよね。
――おもいきりましたねぇ。
小佐野 あの年代は加山雄三ファンが多いでしょ。福岡から上京した渕さんは湘南のほうに家を借りてね(笑)。
――ハハハハハハ!
小佐野 アルバイトしながら自己流で身体を鍛えてチャンスを伺って。クリスマスは女の子とデートしたいし、もうちょっと遊びたいから入門するのはあとに伸ばして(笑)。結局73年3月に入門したんです。
――簡単に入門できたんですか?
小佐野 アポなしで全日本の事務所に行ったら事務所の人間に「道場へ行ってください」と言われて。当時の全日本はまだ道場がなくて、恵比寿の山田ジムというキックボクシングジムが練習場。そこへ行ったら、アメリカ修行直前のジャンボ鶴田さんが道場の掃除をしていたんですよ。キックの人たちは夕方から練習するから、昼間は全日本が使っていい。夕方までに掃除をしないといけなかったんですね。
――鶴田さんの掃除姿はレアですね(笑)。
小佐野 2人は同世代だし、渕さんがレスリングをやっていたことを知ると「いまからレスリングをやろう」と誘われて。鶴田さんはオリンピックレスラーだから渕さんはとても相手にはならないんだけど、当時はアマレスやってる人はそんなにいなかったから、鶴田さんは大喜びで。帰り道にラーメンをおごってくれて「これからボクはアメリカに行ってしまうけど、日本に戻ってくるまで必ずいてね」と。それで入門です。
――入門できたのは鶴田さんなんですね(笑)。
小佐野 そこは鶴田さんが口添えしてくれたんだと思う。当時はまだ寮もなかったから、全日本が目白のマンションを借りていたのかな。佐藤昭雄さん、鶴田さんが住んでいたところに渕さんも加わって。だから全日本入門第1号は鶴田さん、2号は渕さん。でも、公式的には入門第2号は大仁田厚ということになってるんでしょ
――そういえば!
小佐野 渕さんは大仁田さんより先に入門してるんですよ。でも、どうして大仁田さんが第2号の扱いになってるかというと、渕さんは一度全日本をやめてるんです。
――出戻りなんですか。
小佐野 渕さんは入門してすぐ巡業に連れて行かれて、バトルロイヤルにも出てるんです。タイツはまだ作ってなかったから百田光雄さんのものを借りたのかな。その巡業の途中に渕さんのお父さんが脳溢血で倒れたという連絡が入り、実家の福岡に帰ることになった。馬場さんも「父親の容態が良くなったら戻ってこい」ということで、それでいったんやめたんです。ところが実家に戻ってみたら、お父さんの容態はそんなに大したことはなくて。お父さんとしては渕さんを大学に戻したかったみたいですね。
――方便だったんですね(笑)。
小佐野 そうそう(笑)。渕さんは2〜3ヵ月かけてお父さんを説得して、また上京したんです。いきなり全日本に戻るのはバツが悪いから、再び湘南に住んでアルバイト生活。前に入門した同じ時期の74年3月にもう一度全日本に入ったんですよね。
――再入門は許されたんですか?
小佐野 そのときはテストを受けたそうですね。その頃はマシオ駒さんが道場のコーチをやっていて。「何時に道場に来い」と言われたんですけど、春闘のストに巻き込まれて遅刻しちゃったんですよ。
――それはマズイですね……。
小佐野 マシオ駒さんから「何をやってたんだ!?」といきなりブン殴られて。そのあとスクワット500回やらされて、100回ブン投げられて受け身を取らされて、それで再入門オッケー。
――テスト前に殴られるって凄いですね(笑)。
小佐野 100回投げられるのも大変ですよ。その模様を見ていた大仁田さんは「……死ぬんじゃないか」って震えていたそうですし(笑)。正式デビューは大仁田さんのほうが早くて、その数日後に渕さんが大仁田さん相手にデビュー。その年に夏にハル薗田さんが入門して、3人が三羽烏と呼ばれるようになったんです。渕さんにとって幸せだったのは一流外国人レスラーが全日本にたくさん来ていたこと。ビル・ロビンソンや、レスリングが強かったアイアン・シークたちに教えてもらえたんですね。
――素晴らしい環境だったんですね。
小佐野 ロビンソンは鶴田さんにも教えていて、興行開始のリング上でガチンコの練習もやっていたんですよ。
――鶴田さんとロビンソンのスパー!
小佐野 たまに渕さんもその中に入ってサブミッションの教わってたそうですけど。かなり大変だったと言ってましたね。
――全日本にもそういう場があったんですねぇ。
小佐野 だから渕さんも自信があったんでしょうね。渕さんは『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』にも出てきた岩釣(兼生)さんともスパーリングをやってましたから。
――木村政彦の弟子ですね。
小佐野 岩釣さんは馬場さんに挑戦にしてきたけど、「全日本に入門する、しない」というの話になったでしょ。山田ジムで渕さんと岩釣さんがスパーすることになって、馬場さんは「おまえが負けたら俺がやらないといけなくなっちゃいんだよなあ……」と言っていたから、渕さんは「絶対に負けちゃいけない」と意気込んで。それで5分間やって引き分け。
――岩釣さん相手に。
小佐野 やっぱり柔道家は裸のレスリングは慣れていないし、プロレスラーはスタミナが凄いでしょ。頑張れちゃうんですよ。岩釣さんは「プロレスって大変なんですね」って言って帰ったみたいで。
――渕さん、やりますねぇ。
小佐野 馬場さんはもしかしたら岩釣さんと渕さんのスパーに血が騒いだのか、珍しく「おい、やるか」ってことで渕さんとスパーリングをやったそうなんです。馬場さんに首根っこを掴まれた渕さんはキャンバスに寝かされ、顔面に肘打ちを食らって鼻血を出して、腕を極められて……。
――キラー馬場!
小佐野 馬場さんは「悪かった悪かった」と。そんなことが1回だけあったそうですよ。やっぱり馬場さんは身体が大きいから、いったん押さえつけられるともう動くことはできないって。
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