名前:河野太郎(こうの・たろう)
政党:自民党
選挙区:神奈川15区
生年月日:1963年1月10日
血液型:O型
ホームページ:http://www.taro.org/
─政治家になろうと思ったきっかけは?
慶応大学に二ヶ月通った後に米国・ワシントンのジョージタウン大学へ編入しました。80年代前半のことです。米国ではワシントンポストを毎日読んでいて、その当時私が見ている紙面の範囲で"JAPAN"の文字を見ることはほとんどありませんでした。学生時代の知人には、「ソニーは米国の企業だろ」「人件費が安いから日本の工場で組み立てているだけだ」と言われたこともあります。日本の新聞では政治、経済、芸能、スポーツどの面でも米国の記事ばかりなのに米国では日本のことを取り上げてない、この日米間の情報の非対称性に疑問を感じていました。
当時のマンスフィールド駐日大使は「これほど重要な二国関係はない」と言っているにも関わらず、米国の人が日本のことを知らないというのは日本の発信の仕方に問題があるのではないか、日本は何か間違っているんじゃないか、そのもやもやっとした感情が「この国を何とかせにゃいかん」という自分の気持ちの大本につながってきました。
─学校卒業後の就職について
86年の2月に富士ゼロックスに入れてもらい、サテライトオフィスの実験を担当していました。私が国際事業部に所属していた時に会社がシンガポールに拠点を作る話が出てきました。私は東南アジアに新製品を市場導入する担当者に任命され、現地に行くことになりました。国内では製品カテゴリーごとに担当者がつくのですが、「お前全部やれ」と全製品を任されました。
─イチから拠点の立ち上げにたずさわった
もともとイギリス法人が持っていたテリトリーを日本が買収したので、何もないところから始めたわけではありません。所内には文化摩擦があり、面白い時代を過ごしました。シンガポールの目抜き通りのアパートをもらって住んでいて、あれだけ通勤時間が短かったことは今までないですね。本も読めないような距離でした。
─企業に勤めた経験が現在でも役に立っていると思うことはありますか?
単純に日本からアジアを見るのと、現地で企業にどっぷりつかった上でアジアを見るのとでは違いが大きいです。当時アジアと聞くと発展途上国といった印象でしたが、住んでみるとそれなりの資本家もいましたし、勉強している人は米国やヨーロッパへ行っていましたから「コイツら、できるな」という人がいました。その頃知り合った人は相当偉くなっています。
─その後政治家に転身するのですか?
富士ゼロックスのシンガポールを辞め、自動車の部品会社に勤めました。それこそトヨタや日産、松下などの家電メーカーに部品を売っていました。
─また違う世界が広がっていましたか?
富士ゼロックス時代は仕入れ部品の価格が下がると、私はそれを部品メーカーの"生産力向上"によるものだと思っていました。部品メーカーの立場に立ってみてそれが勘違いだったことがわかりました。毎年下げろと言われ、下げなきゃ買ってもらえない現実があったということです。悪戦苦闘しました。トヨタや日産だけでは駄目だからといって海外にも目を向け、当時まだ自動車産業が始まったばかりの中国を歩きました。1990年代の頃です。
中国と合弁会社を作ろうと話を進めていました。その頃は中国南部の方がいい、賄賂を払えば何でもうまくいくという噂がありました。中国の工場長になる予定の人が賄賂の使い方もわからない人だったために、結果的には賄賂もなく、法律通り進めればいい北京で工場をつくりました。最初はみんなにバカにされましたね。「なんで南部じゃないんだ」と。
しかしその後南部ではころころとルールが変わるようになり、部品メーカーも撤退していきました。細々と利益をあげて、今でもうまくいっているようです。
─日本と中国では商売の仕方も違うんでしょうね
やはり粘り強いですよ。交渉決裂して飛行場に戻ってから「もう一回話をさせてくれ」ということもありました。
─企業に比べて政治家の方が大変だと思う瞬間は?
選挙は当たり前の話ですね。やはり役所との絡みです。しかし大臣のように政府の中で権限があるポジションにつくと、指揮・命令で役所が動きます。政府のポジションを早くもらって、自分が思っていることを早いうちにやることは大事だと思います。
馬鹿な話かもしれません。ひとむかし前外務省は国の名前を、ヨルダンは「ジョルダン」、ベトナムは「ビエトナム」、イギリスは「連合王国」と書面に書いていました。小学校で書いてある国名と外務省とで違うのですから、国名、人名をわかりやすく変えろと言っていたのですが、外務省側は直すことはありませんでした。
総務省の大臣政務官になった時に、書類に「ジョルダン」と書いてあったのでそんな国は知らないと突き返したことがあります。当時外務副大臣だった杉浦正健(すぎうら・せいけん)氏がすべて直すということで、それ以降表記は直りました。これは一例ですが、くだらないことまで役所は頑張るので、政治家がしっかりしないといけません。
今は「政治主導」といっていますが、当たり前のことです。しかし当たり前のことをやってこなかったのです。
─世襲について
世襲、世襲と言われますが、みんな結局選挙で通らないと議席はもらえません。例えば、総理大臣の息子が負けるということがあります。確かに議員経験者が引退するときに、その親族が候補者になるというケースが多いです。もっと能力の高い人がいるかもしれませんし、安易に親族が候補者になるということが政治家になる人材供給源が細ることにもつながります。そこは一般の人と公平にする必要があると思います。
私は自民党のグループの会長を務めています。この議論をするとき、自民党で議員経験者を父に持つ議員の中に「世襲じゃない、選挙で勝っているんだから何が悪い」と言われる方が多くいました。その通りですが、他に能力の高い人が出るチャンスを奪っている可能性がありますからもう少し謙虚にならなければいけません。少なくとも自民党が候補を公認しようとする時は、辞めた議員の3親等が続けて同じ選挙区で出馬することは避けるルールを作ろうという話をしています。
かつて中選挙区制の時は、自民党の候補者3人のうち1人が馬鹿であれば他の2人のどちらかを選べばよかったです。小選挙区制になると1人に候補者が絞られるわけですから、自民党に投票したい人は選択肢が一つになってしまいます。これからは1人しかいない候補者をどのように選ぶかを厳しく考えなくてはいけないと思います。
─世代交代を進めるポイントは?
中選挙区時代は自民党から現職3人の候補者がいる時、そこに自民党から出たいという人がいた場合は、無所属で出馬して当選したら追加公認して自民党にする"下克上"がありました。小選挙区になると自民党は1人ですから、現職だから常に自民党公認になるのではなく、予備選挙をやって現職でもやめてもらうような仕組みを取らなければ世代交代は進みません。
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