僕は、ロッキード事件やリクルート事件、ライブドア事件などを取材してきた。その取材をとおして、検察、とくに特捜部の怖さを知ったつもりだ。しかし今回、郷原さんに話を聞いて、改めて「正義」という言葉に酔って突っ走る検察の怖さ、そして、それを煽るマスコミの危なさを感じたのだった。
たとえば事件を目の前にして、まず検察の上層部が、事件の「ストーリー」を描く。もちろん、捜査にとりかかるために、「仮説」をたてることは必要だ。しかし、その「ストーリー」に、何が何でも合わせようとしてしまうのだ。そのため、しばしば強引な捜査になってしまう。
そんな捜査をしていれば、冤罪が生まれるのは当然である。リクルート事件の江副浩正さん、ライブドア事件の堀江貴文さんは冤罪だったと、僕はいまも思っている。そして、厚生労働省の村木厚子さんの冤罪については、みなさんの記憶に新しいことだろう。小沢一郎さんは無罪になったので、冤罪にはならない。だが、検察によって実質的に政治生命を絶たれている。
こうした構図は、いったいどうして生まれるのだろうか。特捜部は、政治家を「巨悪」だとし、自分たちが「正義」だと信じている。検事一人ひとりは正義感にあふれた好人物だ。だが、組織になると「正義」を信じて突っ走ってしまう。
では、マスコミが検察批判をしないのはなぜか。マスコミこそが、権力の暴走の歯止めになるべきではないのか。僕のこの疑問に対して郷原さんは、「マスコミは、対政治家戦争の従軍記者なんです」と答えた。相手が政治家や大物実業家になると、マスコミは「真実」よりも「勝利」を求めてしまうのだろう。つまり、「政治=巨悪を倒す検察」、そして、それを煽るマスコミという構図なのだ。
今回、初めて知ったことがある。1954年の「造船疑獄」が、この構図の原点なのだそうだ。「造船疑獄」とは、造船業界から自由党への贈収賄事件のことだ。
事件は、東京地検特捜部による造船業界幹部の逮捕から始まった。捜査は、政治家や官僚にまでおよんだ。そして、国会議員4名の逮捕を経て、ついに与党自由党幹事長の佐藤栄作氏を逮捕する直前にまで至った。だが、時の吉田茂首相が犬養健法務大臣に、「指揮権発動」を命じたのだ。つまり、逮捕を中止させたのである。
当然、政府に対する批判が巻き起こった。犬養法務大臣は、辞任に追い込まれ、政治生命を断ち切られてしまった。当時マスコミは、「司法が政治に負けた」と騒ぎ立て、いままで僕もそう信じていた。ところが事実はまったく違ったのだ。
実は当時、検察の捜査は、行き詰っていたのだという。造船業界から自由党へお金が渡っていたのは間違いない。だが、あっせん収賄の証拠がないのだ。つまり、「政治献金」があったという事実しか出てこない。贈収賄の立件は難しかったのだ。どうやら捜査主任の河井信太郎検事が強引に捜査を進めていて、マスコミもそれを煽っていたという状況だったようだ。
捜査に行き詰まり、かといって簡単には引き下がることができなくなった検察側は、どうしたのか。吉田首相側近に「指揮権発動」という方法を内々に教えたのだ。これが、ほぼ間違いない真実のようだ。「突っ走る検察」「煽るマスコミ」、そして「煽られる国民」。この構図は、現代日本においても、残念ながらまったく変わっていないようだ。
もうひとつ、「造船疑獄」が残した大きな影響がある。本来、三権分立の正当な方法だった「指揮権発動」が、タブーになってしまったのだ。
「間違えたことがわかったときに、『引き返せる検察』にならなければならない」郷原さんはこう語った。内部にいた人の言葉だからこそ、たいへん重い。
メディアにいる僕たちも、この言葉を心して聞かなくてはならない。「引き返せるマスコミ」であること、このことが重要なのである。
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〈田原総一朗(たはら・そういちろう )プロフィール〉
コメント
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内部情報を知らない株主を手玉に取り嘘を吐いて私益を肥やしていたことは、裁判所で証拠認定された疑いようのない事実。その事実に堀江自身も反論しなかった。堀江のようなヒルズ資本主義者は法によって裁かれて当然で、弁護の余地などない。問題はそういう悪人の悪事を関係のない冤罪問題と結び付けて弁護しようとする田原のような悪いメディア人。冤罪問題とヒルズ資本主義者の悪事は切り離して議論しなければならない。
(ID:22208881)
マスコミも官僚の手の平で遊んでいるだけで、何も真実を報道するなんて気概も使命もないでしょう。
陸山会事件でも、調書を捏造しても無罪放免って、まともな国じゃないでしょう。