冒険家の三浦雄一郎さんが、世界最高齢80歳でエベレスト登頂に成功した。
その驚異的な体力は、70歳7か月、2003年当時の世界最高年齢登頂記録を樹立、その後75歳での登頂で実証済だった。この成功が、さらに多くの人、特に高齢者を勇気づけたことだろう。
三浦さんは、1966 年富士山直滑降、70 年エベレスト、サウスコル 8,000m世界最高地点からのスキー滑降を成功させた。その記録映画はアカデミー賞作品となり、幼少の私も鑑賞する機会があったが、胸がドキドキして息がつまりそうになったのを覚えている。その後、世界七大陸最高峰のスキー滑降など超人的な記録を次々に樹立、世界にも稀な存在として独自の道を拓いた。
その三浦さんが目標を失い、還暦を迎える頃は体脂肪率が40%を超え、狭心症・糖尿病・腎臓病など生活習慣病でメタボとなり発作を繰り返していたというから驚く。
しかし、そんな三浦さんに大きな影響を与えたのが99歳でモンブランを滑降し100歳を過ぎなおスキーを楽しんでいた父、敬三さんの姿だった。三浦さんは、70代でもう一度エベレストへ登るという新たな目標をたて、両足、背中に30キロの重りをつけたウォーキング、低酸素トレーニングで体質改善をおこない、目標とした70歳登頂を果たす。
そのアタックから同行している次男豪太さんは、加齢制御医学(アンチエイジング)の研究者で、順天堂大学の白澤卓二教授に師事している。白澤さんは、その縁で東京都老人総合研究所の時代から、長寿者として知られた敬三さんの体力、健康の根源はどこにあるのか研究し、長寿の秘訣が食事、運動、生きがいにあることを明らかにした。
昔、添乗中に「私たちには時間がないのよ」と、バスの車内で大きな声で叱られたことがあった。ブダペストからプラハへ向かう国境で他の買い物客の戻し税手続きに想像以上に時間をとられてしまった時のことだ。このままではプラハの大聖堂が夕陽にうかぶ姿、ステンドグラスを見ることができなくなる。私たちは夫婦二人最後の思い出として、それを楽しみにこの旅を選んだ。あなたは若いからそれが解らないのといって叱られた。
それから、私は高齢者の時間について考えるようになった。そして希望が大事だと。
時間は誰にも平等に与えられているが、残された時間は皆違う。
「旅はリハビリ」というが、その大きな要因は、旅に出るという目標ができることにあると思う。
敬三さんが、「これは!という目標を持って向かうと、心の燃え方が違う。ただ、トレーニングするだけじゃ、ボケる」と語っていたそうだが、三浦さんも「一番いいのは運動をすることだが、一番大事なのはやる気。頭の能力はそんなに伸びないが、体力はいくらでも伸ばせる。それに比例してやる気も上がる」と語っている。
三浦さんは、今回の登頂について成功要因を忍耐、勇気、希望とコメントした。
介護旅行はR75の市場だ。誰もが無理と諦めてきた旅にチャレンジしていく姿は、三浦家の生き方に重なるところがある。
皆、自分のエベレストを見つけ、登頂という目標へ向けた行動が大事ではないか。
今日を限りと命の火を燃やし尽くして生きる人の姿は、有無を言わさぬ迫力と清々しさを感じる。そうした潔さを具える高齢者の旅が私は好きだ。
【篠塚恭一(しのづか・きょういち )プロフィール】
1961年、千葉市生れ。91年(株)SPI設立[代表取締役]観光を中心としたホスピタリティ人材の育成・派遣に携わる。95年に超高齢者時代のサービス人材としてトラベルヘルパーの育成をはじめ、介護旅行の「あ・える倶楽部」として全国普及に取り組む。06年、内閣府認証NPO法人日本トラベルヘルパー(外出支援専門員)協会設立[理事長]。行動に不自由のある人への外出支援ノウハウを公開し、都市高齢者と地方の健康資源を結ぶ、超高齢社会のサービス事業創造に奮闘の日々。現在は、温泉・食など地域資源の活用による認知症予防から市民後見人養成支援など福祉人材の多能工化と社会的起業家支援をおこなう。
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我々高齢者は、今生きていることの意味を、自覚するか、自覚しないかで、生き方の幅が広がりもすれば、狭められたものにもなる。今生きているといっても、皆がみなすべて存在する、否、存在させられたものは、必ずある時期には、その存在性を失ってしまう。生まれるときも、死ぬときも、自分の意志で何とかなるものではない。自己意志判断を除けば、ある限られた時間を、自由意志によって行動するように義務付けられた存在が、私たち人間と見て取れる。
大きな可能性は、年代とともに変わってくるのは当たり前であるが、老齢化し、存在性を失うときが迫ってくれば来るほど、今現在をどのように生きるかは、極めて大切である。さまざまな理由付けによって、無為に時を過ごし、逆に人間関係とか、社会に不満を抱くのみの高齢者は、生きることの意味を理解しない、自覚しない老害者になりかねないと、他人事でなく私事であると、肝に銘じたい。