56年前の東京五輪の成功がその後の日本の成長につながったように、今年の五輪の成功は「観光立国」を国是とするこれからの日本の国造りを可能にすると謳いあげ、最後は「夢の実現に向けて躍動感あふれる今こそ、歴史的使命である憲法の議論に取り組もう」と締めくくった。
それを聞いて、安倍総理の頭にあるのは、今年夏の東京五輪を花道に、岸田政調会長に政権を禅譲すると私は思った。施政方針演説とは今年1年間の政権の課題について述べるものだが、安倍総理の演説は東京五輪の後に何をやるかに触れなかった。
東京五輪を成功させたところで、ハト派色のある岸田氏にバトンタッチし、野党の抵抗をなくして念願の憲法改正を前進させる。そして憲法改正の道筋ができれば、再び復権を画策する。年齢的には十分に可能であり、郷里の先輩で長期政権の最長記録を持っていた桂太郎が3度政権に就いた前例を踏襲するのである。
施政方針演説に込められた安倍総理の思いを私はそのように受け止めた。ところがその頃、中国の武漢市では新型コロナウイルスが猛威を振るい、安倍総理が施政方針演説をした3日後に中国政府は武漢市封鎖という強硬手段に出た。
周辺国のモンゴルやベトナム、台湾はすぐに国境を閉じ、感染症対策に乗り出したが、「東京五輪」を成功させ「観光立国」を目指すと最高権力者が宣言した日本では、周辺国とは対照的に春節で日本を訪れる中国人観光客を「熱烈歓迎」し、例年より多くの中国人を入国させた。
また横浜港に停泊したクルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス号」の検疫体制を巡って、情報を積極的に開示しない日本政府の対応に海外メディアが反発し、海外では日本が武漢市に次ぐ「第二の感染源」と報道されるようになる。
習近平国家主席の国賓としての訪日を控えていた安倍政権は、中国政府が訪日延期を決めるまで、中国からの入国禁止を決断できず、さらに東京五輪の開催についても混乱が見られた。東京五輪組織委は2年延期を画策したが、安倍総理と小池東京都知事は1年延期でないとたちまち求心力を失う。
かつては敵同士の2人が連携し、1年延期に持ち込むまで、他国と異なり日本では政治リーダーがコロナ対策の先頭に立つ姿を見ることがなかった。不思議なことだが1年延期が決まった途端、日本の感染者数がみるみる増え、安倍総理は緊急事態を宣言する。
危機は権力者にとって都合が良い。国民に恐怖心を植え付ければ平時にできないことが可能となる。安倍総理は憲法に「緊急事態条項」を盛り込むチャンスと捉え、小池知事は自分の再選のチャンスを逃すまいと考えた。そのため国民には必要以上に「自粛」が要求され、中小零細事業者を中心に経済的打撃は計り知れないものになる。
それに加え安倍総理に対する「官邸官僚」の振り付けが最悪だった。意味のない全国一斉休校要請、マスクの配布、さらには星野源との動画コラボなど、机の上でしか物を考えない官僚の愚かさを安倍総理自身が演じた。世界の政治リーダーは軒並み支持率を上げたが、米国のトランプ大統領と安倍総理だけは支持率を下げる珍しい存在となる。
トランプ大統領に対して米国民は秋の大統領選挙で評価を下すことができる。そのためトランプはトランプなりに国民の評価に応えようとするだろう。しかし安倍総理が危機に対応できない権力者であることが明白になっても、選挙がなければ国民は安倍総理に対する評価を下すことができない。
しかも危機がある限り、与党の中の誰もが公然と安倍総理の足を引っ張ることはできない。日本は困った状況にあると私はブログに書いてきた。ところが国会が閉幕すると状況が変わった。安倍総理周辺から秋の解散が言われるようになった。9月の臨時国会で解散し10月25日投開票という日程まで浮上している。それはあるのだろうか。
解散・総選挙に積極的なのは麻生副総理兼財務大臣と言われる。自らが総理の時に解散をためらい、追い込まれ解散になったことで民主党に政権交代を許した苦い経験がある。麻生氏は6月1日と10日に2度安倍総理と会談し、解散・総選挙を進言したという。
その麻生氏は国会閉幕の前夜、16日夜に自民党の二階幹事長と赤坂の料理屋で会談した。国会が閉幕した17日の夜には二階氏が菅官房長官と会談、そこには森山国対委員長も同席した。そして19日の夜に安倍総理、麻生氏、菅氏、甘利自民党税調会長の4人が虎ノ門のホテルで会食するところをメディアに取材させた。
この4人の会合は3年ぶりで、3年前の会合の後には安倍総理が「国難突破解散」と銘打って衆議院を解散したから、それを思い出させる会合の設定である。しかも甘利氏はその前日に時事通信のインタビューで「新たな経済対策と合わせて解散する可能性はゼロではない」と語った。そして20日には森山国対委員長も「今年はひょっとしたら解散あるかもしれない」と地元の会合で述べた。
解散シナリオを描く側の考えには、東京五輪を花道に岸田氏に禅譲するシナリオが消えた以上、何もしなければ「野垂れ死ぬしかない」という危機感がある。彼らにとって安倍総理の支持率低下と反比例して石破氏の支持率が上昇しているのは最悪の事態だ。
なぜなら広島県政を揺るがす河井夫妻の公職選挙法違反事件は、検察の捜査が安倍総理と岸田氏の両方を痛撃する方向で進展し、カネを受け取った県議の中に「安倍さんからと言われた」と証言する者がいたり、安倍氏の秘書が選挙に張り付いていた情報があったりと安倍総理の関与を匂わせる報道が相次ぐ。
一方、広島は岸田氏の地元であり、事の起こりは岸田派の重鎮が落選し、新人の河井案里氏が当選したためで、両方を当選させると党本部が決め、それを岸田氏も了承していたことから、バランスを欠いた選挙結果には岸田氏の政治力に対する疑問も生まれる。安倍総理から禅譲されたとしても総理の器なのかという疑問だ。
しかも事件の背景には、黒川東京高検検事長を検事総長にするため、検察庁法改正案を強行採決しようとした安倍政権の露骨な姿勢が国民から反発を浴び、それが検察内部にも強い危機感を抱かせた事情がある。現職の総理が逮捕されることはないが、総理を辞めた後の政治家を逮捕した例をロッキード事件が示している。
だからロッキード事件でもリクルート事件でも本命と噂された中曽根康弘氏は、総理を辞めた後に摘発されぬよう「禅譲」で後継者を選んだ。竹下登氏は総理になるため中曽根氏の意のままになる道を選ぶ。
安倍総理の「禅譲」を私はそうした流れの話と考えている。ただ中曽根氏と安倍氏の政治家としての能力には大人と子供の開きがあり、中曽根氏と同じことができると思っているわけではない。
権力者にとって後継が自分と最も距離のある者になることぐらい怖いことはない。だから石破氏が後継になることを安倍総理とその周囲は絶対に認めないはずだ。そういう中で何ができるかを考える。1年延期となった東京五輪についてIOC幹部は10月に判断すると発言した。そこで中止が決まれば安倍総理は「過去の人」となり解散する余力もなくなる。
中止が決まらなくとも来年に入ると解散は難しくなる。1月の通常国会冒頭解散は理論上可能だが、コロナで打撃を受けた経済を立て直すのに、来年度予算を会期内成立させることを軽視すると見られ批判される。予算を会期内に成立させても7月には公明党が重視する東京都議会選挙があり、その前後の解散はできない。
9月には安倍総理の任期が切れるので、来年は解散する日程があるようでない。そこから今年中の解散・総選挙が浮上したのだと思う。9月解散10月選挙というのはIOCが来年の五輪開催か中止を判断する前にやろうという訳だ。
野党共闘がうまくいっていないことから、政権交代の可能性はないというのが大きな理由となる。ただし自民党は前回選挙で勝ちすぎているので大量に落選者は出る。その責任追及が出てこない程度の負けにしなければならない。
甘利氏が「経済政策と合わせて」と言っているのはコロナ禍に対する政策として、バラマキをやるということだ。消費税減税に踏み込むかもしれない。追い詰められていることは間違いないから、そうなればなんだってやるのが自民党だ。
しかし予測不能なのがコロナである。夏なら大丈夫と言われているが絶対の保証はない。いずれにせよ解散・総選挙は「バクチもバクチの大博奕」である。自民党の若手の中には支持率が低下している安倍氏より、新しい総理の下で解散して欲しいと思う者もいるだろう。
そこで注目されるのが二階幹事長と菅官房長官の動きである。二階氏は石破氏と接近していると言われる。9月17日に予定されている石破派のパーティに出席を約束した。しかし二階氏が安倍総理の後継に石破氏を担ぐ保証はない。二階氏にとって石破氏は次の人事で幹事長を続投するための安倍総理に対するカードだと私は思う。そして二階氏は解散・総選挙に否定的だ。
菅官房長官は安倍総理を取り巻く「官邸官僚」と対立し、コロナ対策では蚊帳の外に置かれた。安倍総理による解散・総選挙にも否定的と言われる。しかし石破氏や岸田氏に対して接近する素振りもない。二階氏は次の人事で幹事長留任を狙っているようだが、一時幹事長を狙っていたとされる菅氏は音なしの構えである。
安倍総理が解散できずに退陣する時、次を託されるのは菅氏ではないかという説がある。平時ではなく乱世に強い政治家のタイプで、東京五輪からカジノまで「観光立国」実現のため、菅氏が安倍政権の裏を担ってきたと言われているから、菅氏なら総理を辞めても自分を裏切らないと安倍総理が考えているというのだ。
いずれにしろ国会閉幕後の様々な会合は、解散・総選挙を匂わせる仕掛けで、それぞれの権力者が腹の探り合いを続けている儀式だと思う。安倍総理に博奕を打つ余力はなく、せめて自分を裏切らない人間に後事を託す道を選ぶのではないかと私は思っている。
<田中良紹(たなか・よしつぐ)プロフィール>
1945 年宮城県仙台市生まれ。1969年慶應義塾大学経済学部卒業。同 年(株)東京放送(TBS)入社。ドキュメンタリー・デイレクターとして「テレビ・ルポルタージュ」や「報道特集」を制作。また放送記者として裁判所、 警察庁、警視庁、労働省、官邸、自民党、外務省、郵政省などを担当。ロッキード事件、各種公安事件、さらに田中角栄元総理の密着取材などを行う。1990 年にアメリカの議会チャンネルC-SPANの配給権を取得して(株)シー・ネットを設立。
TBSを退社後、1998年からCS放送で国会審議を中継する「国会TV」を開局するが、2001年に電波を止められ、ブロードバンドでの放送を開始する。2007年7月、ブログを「国会探検」と改名し再スタート。主な著書に「メディア裏支配─語られざる巨大メディアの暗闘史」(2005/講談社)「裏支配─いま明かされる田中角栄の真実」(2005/講談社)など。
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THE JOURNAL編集部
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