倉持師範基調講演お疲れ様でした。画期的な改憲論の幕開けとなる講演を聞くことができ、誠にありがたく今後の展開に期待が膨らみます。 よしりん先生、高森先生のお話も参考にしながら、懸命に講演についていくことに努めましたが とっちらかる思考をまとめるのに足掛け5日考え込んでついに頭がショートしました。 結局自分が何を理解できたのかにも首を傾げる有様ですが、どうにか文章にできる範囲で感想をつづらせていただきます。 私は、リベラルというのはどうも相対主義に陥るような気がしていたんですが、「私」領域には立ち入らない、押し付けないというのがポイントなんですね。「公」的にはアウフヘーベン目指してがっつり議論すると。 リベラル的に、「個人」から考え始めても、保守的に「共同体」ありきで考えても、「個」を尊重しつつ、「公」の範囲を、世界でなく国家大までと設定すれば、議論が見当違いになることもなく、近い結論にもなるのだなあと思いました。 どちらも軽視せず目配りをするから論点も広がり議論もより深まるのでしょう。 倉持師範の、感情的な動機で一回改憲やってそれで終わりにしてはいけないというご指摘に目から鱗が落ちました。まことにごもっともです。 ただ、憲法というものを説明するはじめに、フィクションとして個人を置くところが私にはどうも腑に落ちません。ちゃぶ台をひっくり返すような疑問ですみませんが、個人を置かなきゃ始まらないですかね?(理解できなくてホントすみません) 私は、個人というフィクションは、王政を退けて市民社会を作るにあたり、民主主義に正当性を与えるため、王権神授説の代替としてひねりだされもののように捉えています。 そうでないとしても、個人を前提に語る理論は、民主主義にしろ、資本主義(市場主義)にしろ、理論どおりにうまくいくには、個人が常にそれなりの判断力に基づいた合理的な結論を下すものなら、という条件が必須ではないでしょうか。 「個人の尊重と共生」はもちろん、誰も反対しない価値だと思いますが、 「あなたがあなたでいい」のは「あなたが(相応の資質と能力を持ち個人で生きる責任と覚悟を身につけているなら)あなたでいい」ではないのか、()内についても理解したうえでの話でないとと思いますし、正直私は怖気づいてしまうところです。 私には、個人を置くのがどうも後付け理論に思えてしまい、後付けがだめなわけはないにしても、先に共同体があるのだからそちらから始めた方が話がすんなり受け止められます。 普遍といっても、日本は、欧米のように革命やったわけでも、王朝交代があったわけでもないですし、公の範囲が国家までなら、国家の歴史的経緯で憲法を作った理由等成り立ちを語ればいいように思います。 しかし、個人の尊重という観点を持たないままの改憲論ではいけないことは大変勉強になりました。 日本的な個人像というのがあるのか(個人て、あるというか、育つものじゃないか?すると、日本的に個人としてのあるべき姿、目指す個人像が描けるのか?)、 日本的リベラリズムってどういうんだろう(個人と共同体をどこらでバランスとるかになるのか?)・・・勉強不足で考える手がかりが見当たらない状況ですが、今後も道場に食らいつき引き続き学ばせていただきたいです。 倉持師範の、学識とクラシック愛が怒涛のように炸裂するブログ大好きです。 これからも頑張って読みます。
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倉持師範基調講演お疲れ様でした。画期的な改憲論の幕開けとなる講演を聞くことができ、誠にありがたく今後の展開に期待が膨らみます。
よしりん先生、高森先生のお話も参考にしながら、懸命に講演についていくことに努めましたが
とっちらかる思考をまとめるのに足掛け5日考え込んでついに頭がショートしました。
結局自分が何を理解できたのかにも首を傾げる有様ですが、どうにか文章にできる範囲で感想をつづらせていただきます。
私は、リベラルというのはどうも相対主義に陥るような気がしていたんですが、「私」領域には立ち入らない、押し付けないというのがポイントなんですね。「公」的にはアウフヘーベン目指してがっつり議論すると。
リベラル的に、「個人」から考え始めても、保守的に「共同体」ありきで考えても、「個」を尊重しつつ、「公」の範囲を、世界でなく国家大までと設定すれば、議論が見当違いになることもなく、近い結論にもなるのだなあと思いました。
どちらも軽視せず目配りをするから論点も広がり議論もより深まるのでしょう。
倉持師範の、感情的な動機で一回改憲やってそれで終わりにしてはいけないというご指摘に目から鱗が落ちました。まことにごもっともです。
ただ、憲法というものを説明するはじめに、フィクションとして個人を置くところが私にはどうも腑に落ちません。ちゃぶ台をひっくり返すような疑問ですみませんが、個人を置かなきゃ始まらないですかね?(理解できなくてホントすみません)
私は、個人というフィクションは、王政を退けて市民社会を作るにあたり、民主主義に正当性を与えるため、王権神授説の代替としてひねりだされもののように捉えています。
そうでないとしても、個人を前提に語る理論は、民主主義にしろ、資本主義(市場主義)にしろ、理論どおりにうまくいくには、個人が常にそれなりの判断力に基づいた合理的な結論を下すものなら、という条件が必須ではないでしょうか。
「個人の尊重と共生」はもちろん、誰も反対しない価値だと思いますが、
「あなたがあなたでいい」のは「あなたが(相応の資質と能力を持ち個人で生きる責任と覚悟を身につけているなら)あなたでいい」ではないのか、()内についても理解したうえでの話でないとと思いますし、正直私は怖気づいてしまうところです。
私には、個人を置くのがどうも後付け理論に思えてしまい、後付けがだめなわけはないにしても、先に共同体があるのだからそちらから始めた方が話がすんなり受け止められます。
普遍といっても、日本は、欧米のように革命やったわけでも、王朝交代があったわけでもないですし、公の範囲が国家までなら、国家の歴史的経緯で憲法を作った理由等成り立ちを語ればいいように思います。
しかし、個人の尊重という観点を持たないままの改憲論ではいけないことは大変勉強になりました。
日本的な個人像というのがあるのか(個人て、あるというか、育つものじゃないか?すると、日本的に個人としてのあるべき姿、目指す個人像が描けるのか?)、
日本的リベラリズムってどういうんだろう(個人と共同体をどこらでバランスとるかになるのか?)・・・勉強不足で考える手がかりが見当たらない状況ですが、今後も道場に食らいつき引き続き学ばせていただきたいです。
倉持師範の、学識とクラシック愛が怒涛のように炸裂するブログ大好きです。
これからも頑張って読みます。