今回はメカAGさんのブログからご寄稿いただきました。
■続・宗教と思考(メカAG)
「神様を信じていなくてもいい。世界の宗教から学べる7つの大切な教訓」 2014年08月25日 『ライフハッカー[日本版]』
http://www.lifehacker.jp/2014/08/140825religion_lesson.html
タイトルに惹かれて読んでみた。まあ、これだけ世界中の宗教がむかしから同じことを掲げてるのに、世界が現状だというのが、そのアプローチの限界を証明しているといえるよね(苦笑)。
数学の公理みたいなもので、どんな公理系でも証明できない問題が存在する。不完全性定理ですな。でそれを解決するには公理を追加するなり修正するなりしなければならない。でも当然そうやってできた新たな公理系も完全ではなくて…。
そういうアプローチ(求道)が永遠につづくこと自体は科学や数学も同じだから宗教に限った欠点ではない。ただ宗教の場合、どうやって公理を修正していくか?つまり教義を修正していくか?という視点が欠けてる。むしろしばしば修正を否定してたりする。
* * *
数学や科学がどうやってその法則を人類が編み出していったか?というアプローチを重視するのに対して、宗教はあまりその宗教の教義がどういう試行錯誤で作られたかを積極的に語らないのではなかろうか。だから後人が改良したくてもなかなか難しい。まあ数学や科学も義務教育で習う範囲は宗教みたいなもんだけど。「これはこうだ、疑うことなくうに見にしろ」と(笑)。
既存の数学や科学が何かの問題を解決できない場合、数学や科学の方を修正しろ(改良しろ)と教えるはず。宗教の場合は、教義は正しい。でも個人の努力が足りない、信仰が足りない、みたいなアプローチになる傾向があるような。
まあそれで個人個人が自分の中にサブセットの教義を作り上げればいいわけだけど、それが共有されないんだよね。異教徒だ!みたいになって。
やっぱ自己修正のメカニズムを内部に取り込んでるか否かの違いが大きい。
* * *
数学や科学の場合、少数の公理や原理から、多種多様の現実を説明しようとする。宗教も似た側面がある。それが教義だと思うんだよね。上記の記事であげら得ているような根幹的な法則もそういうもの。
でもそこから実際の問題解決に必要な法則を導き出せない。ことわざとかしばしば真逆のものが少なくない。「善は急げ」と「急いては事を仕損じる」とか。数学や科学ではこういうのを公理とは呼ばない。しかし宗教の場合、しばしば両方とも教義に取り込まれているように思う。
そうなるとどういう場合にどっちの教義を優先すべきか?という一番難しい点について、宗教はなにも助けてくれない。教義(公理)同士が矛盾するなら、それはまだ根源的な教義ではなく、もっと基本的な教義に分解できて、適応すべきケースの状況の違いを判別する手段があるはずなのだが、その探求が甘い。宗教が一見役に立ちそうで肝心な問題解決の場面では役に立たないのも、こうした構造的な問題。
関連記事:「宗教と思考」 2014年08月21日 『メカAG』
http://mechag.asks.jp/858508.html
執筆: この記事はメカAGさんのブログからご寄稿いただきました。
寄稿いただいた記事は2014年09月24日時点のものです。
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