コミュニケーション能力とは何か?

今回は内田樹さんのブログ『内田樹の研究室』からご寄稿いただきました。

※この記事は2013年12月29日に書かれたものです。

■コミュニケーション能力とは何か?
土木学会というところから「コミュニケーション能力について」の寄稿を頼まれた。
9月に書いて送稿したものが活字になって今日届いた。
学会誌なので、一般読者の目に触れる機会はないと思うので、そこに書いたものを採録しておく。

●「コミュニケーション能力」とは何か
就活している学生が「これからはもっとも重視されるのはコミュニケーション能力だそうです」と言うので、「うん、そうだね」と頷きながらも、この子は「コミュニケーション能力」ということの意味をどう考えているのかなとちょっと不安になった。

たぶん「自分の意見をはっきり言う」とか「目をきらきらさせて人の話を聞く」とか、そういう事態をぼんやり想像しているのだろうと思う。

もちろん、それで間違っているわけではない。でも、どうしたら「そういうこと」が可能になるかについてはいささか込み入った話になる。

例えば、どれほど「はっきり」発語しても、まったく言葉が人に伝わらないときがある。

個人的な話をする。

何年か前にフランスの地方都市に仕事でしばらく滞在したときの話。スーパーに行ってマグカップを買った。レジに行ったら、女性店員に何か訊ねられた。なんとなく聞き覚えのある単語なのだが、意味がわからない。「え?何です?」と聞き返してみたが、それでもわからない。二度三度と「え?」を繰り返しているうちに店員は諦めたらしく、肩をそびやかしてマグカップを包みだした。

どうも気持ちが片づかないので、カップを手渡された後に、レジの上に身を乗り出して、ひとことひとことゆっくり噛みしめるように「さきほど、僕に何を訊いたのですか?」と問いかけた。

すると店員もゆっくり噛みしめるように「郵便番号を訊いたのだ」と答えた。「なぜ、郵便番号を?」と重ねて訊くと「どの地域の人がどんな商品を買っているのかデータを取っているのだ」と教えてくれた。

郵便番号(code postal)というのは基本的な生活単語である。もちろん私も知っている。でも、それがスーパーのレジでマグカップを買うときに訊かれると、聞き取ることができない。ふつうレジで訊かれるはずの質問のリストの中にその単語が存在しないからである。

これはコミュニケーション不調の一例である。一方において意味が熟知されたこと、当然相手も理解してよいはずのことを口跡明瞭に発語しても、相手が聞き取ってくれないことがある。文脈が見えないからである。「スーパーのレジでは買い物に際して顧客情報をとることがある」という商習慣を知っていれば、文脈がわかる。知らなければ、わからない。

このときに私が肩をすくめた女性店員に向かって、あえてレジに身を乗り出して、ひとことひとこと区切って発語したことで、意味のわからない単語の意味が明かされた。これが「コミュニケーション能力」である。そういうことを顧客はふつうレジのカウンターではしない。

店員は私がフランスの商習慣になじみのない外国人であることを察知して、なぜマグカップを買うのに郵便番号を訊くのか、その理由を教えてくれた。そういうことはふつうレジのカウンターで店員はしてくれない。私は彼女が私のためにこの説明の労をとってくれたことを多とする。これが彼女の側の「コミュニケーション能力」である。

つまり、コミュニケーション能力とは、コミュニケーションを円滑に進める力ではなく、コミュニケーションが不調に陥ったときにそこから抜け出す力だということである。

それは今の例でおわかり頂けるように、「ふつうはしないことを、あえてする」というかたちで発動する。私たちは二人それぞれに「客や店員がふつうはしないこと」をして、それによって一度は途絶しかけたコミュニケーションの回路は回復した。

「ふつうはしないこと」は「ふつうはしないこと」という定義から明らかなようにマニュアル化することができない。それは臨機応変に、即興で、その場の特殊事情を勘案して、自己責任で、適宜、コードを破ることだからである。

そして、コードを破る仕方はコード化できない。当たり前のことである。

同じような例をもう一つ。これもスーパーで買い物をしたときの話(今度は日本。スーパーのレジというのはどうもコミュニケーション不調の多発地点のようである)。

夕食の材料を買い込んでお金を払おうとすると若い男の店員に「ホレーザ、ゴリヨスカ」と言われた。意味がわからないので、「え?」と聞き返した。店員は同じ言葉を同じ口調で繰り返した。三度目で、それが「保冷剤、ご利用ですか?」だということがわかった。

同じような「聞き取りそこね」は日々各所で多発していると思う。でも、考えてみれば、このコミュニケーション不調は、客に聞き返されたときに、例えば「傷みやすい食材を冷やすために、保冷剤お入れしますか?」と言い換えれば済むことである。「冷やす」という語が先に来れば、彼の滑舌の悪い「ホレーザ」が「保冷剤」であることはおおかたの日本人にはわかる。その手間を惜しんだところに彼のコミュニケーション能力の低さが露呈している。

でも、これを彼の属人的な資質の問題と言い切ることはできない。

おそらくそのような「言い換え」を必要に応じて店員が自己責任でしても構わないということはこの店の「商習慣」にはないのである。

わが国には店員たちが顧客に対して自己責任でコミュニケーションを取ろうとすることを忌み嫌う商文化がある。チェーン店というのはすべてそうである。そんなことをされると現場の秩序が乱れると信じている人たちが管理部門にいるのである。

こういう店のマニュアルを書いている管理職は顧客と店員の間で取り交わされる対話はすべて予見可能であり、店員はそこに指示された以外の言葉を口にすべきではない、日本中どこのチェーン店でもまったく同じ応答がなされることこそが真のサービスだと信じている。

これこそ私たちの社会に取り憑いた「コミュニケーション失調」の主因の一つだと私は思っている。

大学を辞めたのでもうセンター入試の試験監督というものをしなくてよくなった。これが私にとっては退職したことの最大の喜びである。

監督者は事前に1センチほどの厚さのマニュアルを渡されて、それを熟読し、そこに書かれている通りに入試業務を進行することを求められる。私は退職前には入試部長という職にあったが、私が読むことを求められた「責任者用マニュアル」は全6冊、片手では持てない厚さと重さだった。

その中で、年々頁数が増してゆくのが「トラブル対応マニュアル」であった。

「試験中奇声を発する受験生」や「『必勝』はちまきをしている受験生」や「強烈な香水をつけている受験生」をどう処遇すべきかが書いてある。前年版からの増加分は「前年にどこかの会場で本当にあった事例」だということである。このペースで毎年改定を続けてゆくと、やがて「トラブル対応マニュアル」だけで数百頁、重さ数キロの物量になってしまうことに誰かが気づいて、「センター入試はもうやめよう」ということになったのではないかと私はひそかに疑っている。

この笑えない事態は、日本中の受験生に同一の環境を確保するために、監督者は決してマニュアルに書いてあること以外の言葉を試験会場では口にしてはならないし、想定外の出来事に自己裁量で対応することもまかりならないというルールがもたらした事態である。

マニュアル主義者は「想定外の事態に遭遇した場合にも、現場で自己裁量することは許されない」と深く信じ込んでいる。現代日本のシステムがことごとく機能不全に陥っているのは、私の見るところ、この病的なマニュアル主義のせいである。

「臨機応変で事態に処することのできる力」は生物にとって必須の能力であり、それを涵養することが教育の本務であるという合意は私たちの社会にはもう存在しない。求められているのは「すべてを列挙した網羅的マニュアル」の整備と、「決して自己決定しないで、逐一上位者に諮って、その指示を待つ」人間の育成である。

まことに愚かなことと言わねばならない。この病が蔓延したことによって「どうしてよいかわからないときに、適切にふるまう」という人間が生き延びるためにもっとも必要な力が致命的に損なわれたからである。

わが国のエリート層を形成する受験秀才たちはあらかじめ問いと答えがセットになっているものを丸暗記して、それを出力する仕事には長けているが、正解が示されていない問いの前で「臨機応変に、自己責任で判断する」訓練は受けていない。むしろ誤答を病的に恐れるあまり「想定外の事態」に遭遇すると、「何もしないでフリーズする」方を選ぶ。彼にとって「回答保留」は「誤答」よりましなのだ。だが、ライオンが襲ってきたときに「どちらに逃げてよいか、正解が予示されていないから」という理由でその場に立ち尽くすシマウマは最初に捕食される。だから、秀才たちに制度設計を委ねると、その社会が危機を生き延びる可能性は必然的に逓減する。

今回私に与えられた課題は「土木技術者対社会といった、立場が大きく異なる者同士が互いに分かり合えずにいる現状」にどう対処したらよいのかについて原理的な考察を加えて欲しいというものであった。ここまで読まれたら、私からの提言はもうおわかり頂けたであろう。

「立場が大きく異なる者同士が互いにわかり合えずにいる」のはそれぞれがおのれの「立場」から踏み出さないからである。「立場」が規定する語り口やロジックに絡め取られているからである。「わかり合う」ためには「立場」が定めるコードを適宜破ることが必要だというコミュニケーションについての基礎的知見が共有されていないからである。

「あなたは何が言いたいのですか。わからないので、しばらく私の方は黙って耳を傾けますから、私にわかるように説明してください」と相手に発言の優先権を譲るというのが対話のマナーであるが、このマナーは今の日本社会では認知されていない。

今の日本でのコミュニケーションの基本的なマナーは「自分の言いたいことを大声でがなり立て、相手を黙らせること」である。相手に「私を説得するチャンス」を与える人間より、相手に何も言わせない人間の方が社会的に高い評価を得ている。そんな社会でコミュニケーション能力が育つはずがない。

「相手に私を説得するチャンスを与える」というのは、コミュニケーションが成り立つかどうかを決する死活的な条件である。それは「あなたの言い分が正しいのか、私の言い分が正しいのか、しばらく判断をペンディングする」ということを意味するからである。

ボクシングの世界タイトルマッチで、試合の前にチャンピオンベルトを返還して、それをどちらにも属さない中立的なところに保管するのに似ている。真理がいずれにあるのか、それについては対話が終わるまで未決にしておく。いずれに理があるのかを、しばらく宙づりにする。これが対話である。論争とはそこが違う。論争というのはチャンピオンベルトを巻いたもの同士が殴り合って、相手のベルトをはぎ取ろうとすることである。

対話において、真理は仮説的にではあれ未決状態に置かれねばならぬ。そうしないと「説得」という手続きには入れない。

「説得」というのは、相手の知性を信頼することである。

両者がともに認める前提から出発し、両者がともに認める論理に沿って話を進めれば、いずれ私たちは同じ結論にたどりつくはずだというのが「説得」を成り立たせる仮説である。

「私が正しく、お前は間違っていた」という事態と「あなたは私の意見に合意した」と事態は、遠目で見ると、ありようは似ているが、アプローチが違う。

説得するためには対面している相手の知性に対する「敬意」をどんなことがあっても手放してはならない。そして、先ほどから述べている「コードを破る」というふるまいは相手の知性に対して敬意を持つものによってしか担われない。

コミュニケーションの失調を回復するために私たちは何をするか。

私がスーパーのレジでしたように、「身を乗り出す」のである。相手に近づく。相手の息がかかり、体温が感じられるところまで近づく。相手の懐に飛び込む。「信」と言ってもよいし、「誠」と言ってもよい。それが相手の知性に対する敬意の表現であることが伝わるなら、行き詰まっていたコミュニケーションはそこで息を吹き返す。

かつて凡庸な攘夷論者であった坂本龍馬は開国論者である幕臣勝海舟を斬り殺すために勝の家を訪れたことがあった。勝は龍馬を座敷に上げて、「お前さんたちのようなのが毎日来るよ。まあ、話を聴くがいいぜ」と世界情勢について長広舌をふるった。龍馬はたちまち開国論に転じ、その場で勝に弟子入りしてしまった。龍馬を「説得」したのは、勝の議論のコンテンツの正しさではない(龍馬には勝が語っていることの真偽を判定できるだけの知識がなかった)。そうではなく、自分を殺しに来た青年の懐にまっすぐ飛び込み、その知性を信じた勝の「誠」である。

幕末の逸話をもう一つ。

山岡鐵舟が江戸開城の交渉のために駿府に西郷隆盛を訊ねて東海道を下ったときの話。薩人益満休之助ひとりを伴った鐵舟は、六郷川を渡ったところで篠原國幹率いる官軍の鉄砲隊に遭遇した。鐵舟はそのままずかずか本陣に入り「朝敵徳川慶喜家来山岡鐵太郎総督府へ通る」と大音あげて名乗った。篠原は鐵舟のこの言葉を受け容れて、道を空けた。

鐵舟と篠原では立場が違っていた。ロジックが違い、コードが違っていた。コミュニケーションが成立するはずのない間柄であった。けれども、鐵舟はそこに奇跡的に架橋してみせた。

鐵舟はあえて「朝敵」と名乗ることによって、篠原に次のようなメッセージを送ったのである。あなたがたから見たら私は殺すべき相手であろう。私はそれを理解している。あなたの立場であれば、それは当然だろう。だが、その判断を機械的に適用することを今いっときだけ停止してはもらえまいか。判断を留保して、「目の前にいるこの男の言い分にもあるいは一理あるのかもしれない」という仮説的な未決状態を採用してはもらえまいか。現に私は幕臣であれば決して口にすることのない「朝敵家来」という名乗りをなしているではないか。私は私のコードを破った。あなたはあなたのコードを破ってはくれまいか。

篠原に向かって鐵舟はそう言って「身を乗り出して」みせたのである。コミュニケーションを架橋したのは鐵舟の「赤誠」である。

私はこのような力をこそコミュニケーション能力と呼びたいと思うのである。

執筆: この記事は内田樹さんのブログ『内田樹の研究室』からご寄稿いただきました。

寄稿いただいた記事は2014年02月04日時点のものです。

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