and_272567.jpg私は昨年、チャンネル桜に出演した。2010年の夏にNHKで放映された番組について『日韓討論番組、崔洋一監督の「歴史を語る資格はない!」が視聴者に波紋 http://bit.ly/9Ekhpo』という記事を書いたことが発端。

同番組で崔監督に対し植民地支配について述べたことから、チャンネル桜のパーソナリティーを務めることになった著述家で保守活動家の古谷経衡氏から依頼された。彼は、同番組の放映から1周年を記念した放送にしたいと話した。

自分が記事を書くということは、誰かの人生を切り取ることでもあり、ひどい言い方をすれば誰かの人生を晒すことでもある。自分がある意味暴力的なことをしているなかで、一度逆の立場になってみたいとも思っていた。そして、出演を快諾した。

出演するにあたって、一部の友人知人からは猛反発を受けた。「あのチャンネルがどれほど排外的な番組を流しているのか知らないわけではないはず」「レイシストの片棒を担ぐ気か」といった意見が大半だった。

私は、普段インターネットのニュースを配信しているが、そのニュースはネットを見た人にしか伝わらない。そして、ネットは「自分が見たいものしか受け取れない」という点が特化しているメディアだ。

私は差別や在日について、多々発言している。それが元から理解がある人に伝わるのは当たり前だ。その一方で、保守や右翼的な傾向にある人には全く届いていない場合が多い。そちら側へこそ、伝えなくてはいけないことがあるのではないか、何かを投げかけるにはそちら側へ赴くことも必要なのではないかと思っていた。

また、チャンネル桜の井上専務と電話でやり取りした時の印象と、その後にお会いした時の人柄も後押しした。チャンネル桜自体は、キムチ鍋のアンケートをした回 https://www.youtube.com/watch?v=ikzYuV4-JEY が特に印象に残っている。意図しない結果になっても「そのまま流す」ことに惹かれた。この「そのまま流す」ことについては、かねてから思うところもあった。

私は、朝鮮学校無償化問題やさまざまな差別問題、日韓朝問題にかかわるなかで、在特会と接する機会も多くなった。ネットという新しいメディアが生み出した、差別意識を政治や社会問題にすり替えたこの団体は、差別する自らの動画を、悪びれる様子も恥すらも自覚することもなく堂々と晒している。その行為について、ずっと考えていた。

チャンネル桜に出ることは、自分が晒される対象となる。私は馬鹿だし、想像力も少し足りないので、自分が体験しなければ心底から理解できないことが多い。もしかして傷つくかもしれないけれど、そうすることで差別や在日を取り巻く得体のしれない空気を理解できるのではないか、差別を今現在、進行形で受けている他の人々の痛みを共有できるのではないかとも思った。

私は、自分がネットの媒体の中で消費されることで、差別と差別に至らないまでも排外的である何かを受け止めてみたかった。それが、チャンネル桜に出た理由だ。

古谷氏の「さくらじ」では前後2回、「闘論!倒論!討論!2011 日本よ、今…」に1回の計3回出演した。「さくらじ」の前半の回では、観客席からは日韓併合が植民地支配であると云った私に「日本で生まれ育って教育まで受けたのに、そんな考え方とは。(在日は)日本に生まれて不幸」との発言を受けた。

「考え方ひとつを取り上げて、他人の人生を否定する権利は誰にもない」と思うし、実際そのように返事した。民族名と日本名については、民族名を名乗ることで不利益が生じるということがあってはならないが、この日本社会は残念なことにそうではない。どちらの名前であれ、自分で選んだ名前が本当の名前ではないかとも主張した。

しかし、前半もそうだったが、後半の回での「在日や外国人は日本の“ゲスト”」「在日は日本人ではないから同じ権利を求める方が厚かましい」「日本は他の国に比べて外国人に寛容」などという言葉に遭遇するたび、絶句してしまった。

ネット上では「論破された」とはやし立てられたが、丁寧な口調ではありながら自分の存在を否定されるような言葉を突き付けられた時、思考は停止し、言葉が出なくなると云うことを初めて知った。のちに、それが「沈黙効果」ということを聞いたのだが、差別はあらゆる意味で人を黙らせる。

自国にいる外国人(特に旧植民地出身者・移民者)をゲストとしてみなすのは、自分と異なる他者を排斥することを取り繕った行為だろう。一見、ゲストという言葉は他者を尊重しているように見えるが、実際は日本を自分と一体化させ、自身が主であり、他者を部外者と位置付ける行為だ。それは自分の存在を優位に保つためでしかない。

排外ナショナリズムを煽ることで団結し、溜飲を下げる人々。でも、この世に生まれることを自分が選んだわけでもなく、日本人であることはほんの偶然に過ぎない。自分で掴みとったものではないことだけで優位に立とうとしても無理がある。その無理を通すために、差別が必要となるのだろうか。

在日とは、そしてそこにまつわる差別とは何かを伝えようとして、私はさらに迷いこんだ。ふと、自分が写った動画を見ていると、在特会で動画を撮影し、ニコ動やユーチューブに配信したブレノという人物と、これまで取材をして、朝鮮学校や差別についての記事を書いて来た自分が重なって見える。

差別について、何もわかっていなかった自分を知った。ネットと差別という深い井戸を覗き込んだら、自分の顔しか映っていなかった。

(李信恵)

※この記事はガジェ通ウェブライターの「李信恵」が執筆しました。あなたもウェブライターになって一緒に執筆しませんか?

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