ちょっと興味があるので、原発とエネルギー問題について書かれた本を探し出しているのだけれど、Amazonのレビュー欄がみごとに政治的闘争の現場と化していて役に立たない。

 正直、実物を読まなくては何が正しく何が間違えているのか判断できないので、自分で書店なり図書館へ行って本を探すことにしたいと思う。

 電子書籍で入手できればそれがいちばん楽なのだが、そういうわけにもいかないようだ。

 余談だが、最近は物理書籍が邪魔に感じて仕方ないので、電子書籍以外の本をほとんど買わなくなっている。

 出版社の人には物理書籍と同時に電子書籍を出版するよう努力したもらいたいものだ。余談終わり。

 さて、個人的な意見を述べるなら、原発を巡る「議論」は、絶対正義と絶対正義の対決という印象で、不毛そのものといった様相を呈しているように思う。

 タバコを巡る論争と同じ現象が、さらにいびつな形で起こっている感じ。

 ぼくはこういう議論を「ハルマゲドン型」と呼んでいる。

 聖書にある最終戦争のごとく、絶対に譲らない善悪の戦いであるかのような論争という意味だ。

 ハルマゲドン型の議論は、永遠に進展することなく、ただ互いが互いに向けて自分の主張を延々と投げつけ続けるだけに終わる。そこに妥協の余地は一切ないのだ。

 したがって、ハルマゲドン型論争はいつも限りなく無意味である。

 議論とは普通、より正しい結論を導き出すために行うものだろう。

 しかし、ハルマゲドンと化した議論はいつまでも平行線をたどるばかりでいかなる結論も出ないのだから、労力の無駄遣いというしかない。

 もちろん、その議論を行う両者は、やり取りの不毛さはすべて相手側の愚かしさと無理解に起因すると考えるわけだが、お互いに心からそう思っているのだから世話はない。

 ハルマゲドン化した時点で、その議論には未来がないのだ。

 もっとも、ハルマゲドン型論争にも主観的な勝利なり決着はある。

 この種の論争が終わるときがあるとすれば、それはどちらか一方が相手に対し勝手に勝利宣言した時である。

 その時点をもって議論は決裂という形で終結を見る。

 そのような形の終結を見ない限り、この「議論」は、多くの場合、果てしない嫌味と皮肉と決めつけと揚げ足取りの応酬という形で続いてゆく。

 まるでよりうまく嫌味をいえたほうが勝利者だと決まっているかのように。

 大人とは、ひとより誠実に言葉を選べる人をいうのであって、他人を皮肉るのがうまい人のことではないのだが……。

 とにかくまあ、「自分は絶対に正しくて、相手がバカ」だと考える類の「自分は賢いので絶対にバカなミスはしないと思い込んでいる人たち」の繰り広げる「議論」とは、おおむねこのようなものである。

 場合によってはじっさいにどちらかが正しく、どちらかが間違えているのかもしれないが、それにしてもその議論に価値があるとは思われない。

 絶対対絶対の不毛を乗り越えるためには、問題の結論が絶対正義ならぬ灰色の領域に属していて、100パーセント自分が正しいとはだれにもいえないという認識が必要である。

 「議論」とは、それに参加する両者がこの「グレイゾーン思考」を備えていて初めて、有効になりえる可能性を持つ。

 もちろん、正か否か、完全に割り切ることができる問題もあるだろう。1+1は、いついかなるときも普遍的に2であって、3にはならない。

 しかし、