そろそろ読むほうも飽きて来ていると思うが、もうふたつだけ生活の記事を書いておきたい。これはぼくの関心がそこにあるからだ。退屈かもしれないが、どうかご容赦を。

 さて、先日購入したばかりのアジアンタムの葉が早くも枯れそうになっている。どうやら水をやりすぎて根腐れしたらしい。

 しかたがないので、外に出して陽を浴びせることにした。これで少しでも回復してくれると良いのだけれど。園芸初心者としてはただ晴天が続くことを祈るばかりだ。

 植物を育てるということはどこか自分を育てるようなところがある。

 己の心が乱れていて、水をやりすぎたり、あるいは水やりを怠ったりすれば花や葉は自然と枯れる。

 そうなると、その不手際を悔やみつつ、その頃の生活を省みることとなる。まさに「自分育て」だ。

 どうやら、ぼくの心はまだまだ未熟もいいところのようだ。あたりまえといえば、あたりまえのこと。

 それにしても、「生活」とはすごい言葉だ。

 それは「生」きると「活」きるというふたつの文字から成り立っている。

 生き、また、活きる。それが「生活」なのである。

 この頃、ぼくはまさにその意味での生活に興味を持つようになった。つまり、どうすればより良く、より幸せに生きることができるのか、というテーマ。

 ひとつには、怠惰や贅沢に流されることなく生活を「管理」することが大切だと思う。

 なぜなら、怠惰や贅沢は何より大切な「感性」を鈍らせるからである。

 どんなにたくさんの電波が飛び交っていてもアンテナがなければ受け止められないように、どれほどたくさんの幸福があっても感性が鈍ければ感じ取れない。

 世界を感受するアンテナとしての感性をいつもぴかぴかに磨いておくこと。まずはそれが大切なのではないか。

 そのために自分をきびしく管理する。それはひどく大変なように思えて、その実、最も効率的な「道」なのかもしれない。

 そういうふうに考えて行くと、自然と「修行」という言葉が思い浮かんでくる。

 生き、また活きることとしての「生活」は、それ自体が「修行」という一面を持つのではないか。

 もちろん、ぼくは僧侶や修験者のような過酷な日常を過ごしたいとは思わないし、そもそもそんなあり方には耐えられない。

 ただ、毎日、あたりまえのことをあたりまえにこなす、その日々がささやかな精神修行になっていればいいと思うだけである。

 真に感性を研ぎ澄まし、世界を飛び交う「電波」を感受するアンテナを張り巡らせていれば、べつだん贅沢を究めなくても、一杯のスープ、一冊の本、路傍に咲く一輪の花にも深い喜びを感じることができるはずだ。ぼくはそういう「生活」を目指したい。

 もっとも、ぼくには一切の欲望を断つことは無理である。どうしたって「欲」はあとからあとから滾々と湧き出てくる。

 ただ、ぼくはその「欲」をより精密に満たしたいと思うのだ。

 「ただなんとなく」生きるのではなく、自分の望みを正確に洞察しながら活きる。それができて、初めて「幸福」という言葉に近づけるように思う。

 膨大な情報があふれ、金しだいであらゆる欲望が満たされるようにも思われる現代社会で、その奔流に流されることなく、どこまでもしずかに自分自身の内面を見つめつづけること。それが「生活」であり、「修行」なのではないか。

 ただ、社会からのがれ、その情報や快楽を捨て去り、ただ「心のしずけさ」だけを求めることも、何か違うと感じられる。

 それは自分のなかで「聖」と「俗」を分かつことになる。

 ぼくにはひたすら「聖」を目ざすことも、「俗」に溺れることも、「ほんとうの幸せ」からかけ離れた「道」であるように思える。

 本来、自然世界に「聖」も「俗」もなく、ただ人間だけがそれを区別してやまないのだから。

 ナチュラルな心に従うのなら、「聖」であれ、「俗」であれ、この世のあらゆるものが福音となるはずだ。

 泥の海も。

 空の星も。

 スティーヴ・ジョブズは