サーヴァントであるアーチャーがマスターである遠坂凛に背く中盤のクライマックス。
ここから「アーチャーは何を考えているのか?」という謎を巡って物語は佳境へ突き進んでいきます。
最終的には最初にして最強の英霊・荒ぶる半神王ギルガメッシュとの対決が待ち受けているわけなのですが、士郎はその前にアーチャーとの決着を付けなくてはなりません。
あくまで「正義の味方」を目ざす士郎と、その欺瞞を突くアーチャー。近年まれに見る激闘の行方やいかに?
まあ、士郎やその義父・切嗣の生き方というものは、やはりどうしても無理があるよなあ、とぼくも思います。
「全人類の救済」とか、そんなもの個人が背負いきれるわけないんですよ。背負おうとして良いものでもない。
ある人を救おうとすることはべつのある人を犠牲にすることであり、ひとつの正義を貫けばべつの正義と衝突するのが現実というものなのですから。
とはいえ、リアリストの凛ですら惹きつけられるほどに士郎の理想は美しい。
それはもう、ある種宗教的な美しさといっていいでしょう。
常人ならば一歩か二歩であきらめるであろう酷烈な道をひたすらに征く、その凛然とした生き方――そこにはたしかに強烈なロマンがあるのです。
『Fate』という物語の魅力は、一面ではその「マクロに殉じる」姿の美しさにあることでしょう。
そういう意味では、『進撃の巨人』とかにつながっていく文脈にある作品なのかもしれません。
もっとも、それも次の「Heaven's Feel」では崩壊してゆくわけなのですが――。
とにかく、セイバーの生き方は「国」という境界を定めてその内側だけを守るという制限を設けているため、まだしも成立しますが(それさえ「王としてふさわしくない」とかいわれちゃうわけですが)、士郎や切嗣の人生はほんとうに「無理ゲー」だと思う。
自分のミクロな人生よりも、マクロな世界のあり方のほうをどこまでも優先する人生――それはもう、「人の生」とはいえないシロモノなのかもしれません。
おそらくそうした「生」を貫けるものは、もはや人外のバケモノとしか呼びようがない存在なのでしょう。
桂正和の『ZETMAN』なども、そういうヒーローの姿を描いていますね。
「私」の一切を封印して、「公」のために生きる。
滅私奉公。
それは一種、ファシズムにつながっていきかねない危うい思想ではありますが、あくまで物語のなかで見るのなら、何ともいえずひとを惹きつけます。
そしておそらくほんとうに一切の感情を差し挟むことなくマクロのことを考え処理する存在とは、もはや人間ですらなく一種の「装置」であるに過ぎない、といえるでしょう。
ぼくが思いつくところでは、『ファイブスター物語』の天照の帝がこれですね。
天照は魔導師ボスヤスフォートの侵略を受けても一切の報復を行うことがありませんでした。
その気になればボスヤスフォートとそのバッハトマ帝国を一瞬で灰にすることもできたのにもかかわらずです。
天照にとっては「部下を殺された」とか「領土を侵された」、「玉座を穢された」といったことは何の意味もないのに違いありません。
かれはただ一個の「装置」としてマクロ的に最善の政策を選択するだけなのです。
これは天照が本質的に人格を持たない「神」だからなしえることで、生身の人間が真似をしようとしたら恐ろしい苦悩を味わうことになります。
その苦悩を体現しているのがたとえば
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