より重要なのは、彼女が二匹の犬の飼い主であるということ。スウと、ハク。ある愛犬と別れる際、「もう二度と犬なんて飼わない」と誓った彼女にその誓いを破らせた犬たち。この本は、そんな犬たちの「母親」である森が綴った人と犬との記録である。
人と、犬。それぞれ異なる種であるはずのふたつの存在は、しかし、時に互いを必要としあうことがある。人は犬の想いに共感し、犬は人の哀しみに共鳴する。その不思議。
ある意味でこの本の続編ともいえる『おいで、一緒に行こう』と合わせて、犬好きの方にはお奨めできる一冊である。
こういう本を読むとき、ぼくはいつも共感について考える。共感とは何だろう。ひとの想いに共振すること。そうだろうか? しかし、森のように同じ人間ではない犬の想いに共感する人もいる。犬だけではなく、猫や、鳥に共感する人もいることだろう。
フィリップ・K・ディックだったか、捕らわれたゴキブリにすら共感し、それを飼っていたという作家の話を聞いたこともある。人は果てしなくどこまでも共感の範囲を広げていける生き物であるようだ。
とはいえ、ぼくのような普通の人間の共感範囲は限られている。同じ人間に対してすら、なかなか共感を寄せることはむずかしい。時には怒りや憎しみに囚われ、実在しない「敵」を生み出すことすらある。狭隘な自我の虜囚。
しかし、この世には、ごく少数ではあるだろうが、人並み外れた共感力を持つ「共感の天才」とでも呼ぶべき人々がいる。宮沢賢治がそうだったし、金子みすゞもおそらくそうだったのだろう。かれらはときに無生物にすら共感を注ぐ。
上の雪さむかろな。つめたい月がさしていて。下の雪重かろな。何百人ものせていて。中の雪さみしかろな。空も地面(じべた)もみえないで。
雪という無生物にまで想像力を働かせ、「さむかろな。重かろな。さみしかろな」と「共感」してしまう、この異常に鋭敏な感受性が、金子の作品のなんともいえない魅力である。
金子や賢治のような天才は、いわば果てしなくどこまでも広がる無限射程の共感能力を持っているのだ。そのような天才的な共感力を持って見てみれば、この世はすべて共感の対象である。
すべての人間はおろか、あらゆる生き物、それどころか無生物すらも、愛を注ぐべき対象として浮かび上がってくるのだ。時々見かけるあの野良犬も、となり街に咲く桜の花も、しずかにそびえ立つ電柱も、遠い空の彼方の星々すらも、すべては「時」の侵食を免れず、やがてはその命尽きて消えていく儚い存在に他ならない。
その意味ではこの宇宙全体が、ぼくとともに時のなかを駆け抜けてゆく同胞なのだということ。『ヴィンランド・サガ』で語られたように、この世に敵などいない。すべてみな友であり、仲間であるのだという実感、それが、ぼくがいうところの「戦場感覚」の行き着く究極の地点だ。
そこにはもはや「戦い」の感覚はない。この宇宙のすべての存在が限りなく愛おしく、かけがえなく、それでいていつか失われてゆくものなのだという想い――ぼくが「ポラリスの銀河ステーション」と呼んだ境地である。
最近読んだ『嫌われる勇気』によると、アドラー心理学では「共同体感覚」という言葉があるという。この共同体感覚とは、ぼくが云うところの「戦場感覚の向こう側」、「ポラリス」と近いところにあるものなのではないだろうか。もはや敵もなく、味方もいない、すべては平等で、差別も価値判断もない世界。
金子みすゞは詠う。
私は好きになりたいな、何でもかんでもみいんな。葱も、トマトも、おさかなも、残らず好きになりたいな。うちのおかずは、みいんな、母さまがおつくりなったもの。私は好きになりたいな、誰でもかれでもみいんな。お医者さんでも、烏でも、残らず好きになりたいな。世界のものはみィんな、神さまがおつくりなったもの。
この世のあらゆる森羅万象の存在へと注ぐ、無限射程の愛と共感――しかし、決してそれは人がたどり着けない境地でもある。それは「死」に限りなく近い世界だからだ。
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