「美しい義足」という衝撃。切断ヴィーナスたちの美の世界。
おそらく、この問いには千人千様の答えがあることだろう。ある人は、形よく整っていること、と答えるだろうし、別の人は異形であること、妖しく、なまめかしいこと、と応じるかもしれない。
ひとは誰もひとりひとりが、その心の内側にそれぞれ異なる「美の世界」を隠し持っている。あたかも古ぼけた館の奥の秘密の一室のように。
しかし、そうは云っても、多くの人にとって、「美」とは端正さ、秀麗さ、整然としていること、に近いところにある概念だろう。
失われたものに惹かれる人は少なくないとしても、殊更、「欠落」に美を見いだす向きがさほど多いとも思われない。ある種のフェティッシュな嗜好として「欠落」を愛好する者はいるとしてもだ。
「欠落」とは欠けているということ。十全ではないということ。そこにふしだらに妖しい日陰の美の世界を見いだす者は存在するとはいえ、それはあくまでアンダーグラウンドな表現として注目されるに留まるもの、そう考えることが通常の認識なのではないか。
ところで、Eテレに「バリバラ」という「障害者」テーマの番組がある。先日、その番組で「切断女性たちの美の世界」と題した内容が取り上げられていた。
タイトル通り、肉体の一部を切断した、あるいは生まれつき欠損している女性たちの「美」の世界を追いかけた内容となっている。
そのなかで紹介されていたのが写真集『切断ヴィーナス』。11人の義足の女性たちをフォーカスした一冊である。表紙を見ただけでも分かる通り、そのなかには、妖異でありながらも、美しいとしか云いようがない世界が表現されているようである。
この番組を見て、ぼくは強く惹きつけられた。何て美しい――そして力強い世界なのだろう。
足がない、ということは本来、ある種の「欠落」であり、「不足」であるはずである。少なくともそれが世間一般でのあたりまえの受け止め方だろう。
何らかの事情によってあるべき足を失った彼女たちは、まず「障害者」であり、同情や憐憫を向けられることこそあれ、颯爽とカメラの前に佇むことなどないものと考える人は少なくないはずだ。
だが、じっさい、美々しく装ってカメラの前に佇立するヴィーナスたちの姿には、「わたしを見なさい」と云わんばかりの強烈な自負が感じられる。
おそらく、初めからそこまでの自尊を手に入れていたわけではないかもしれない、どこかで「壁」を乗り越え、自分自身をはっきりと受容してカメラの前に立つことができるようになったのかもしれない、そう思われるからこそ、女神たちはいっそう美しい。
そう――「美」とは、力。カメラの視線の前であるいは不敵に、あるいは挑発的に立つ彼女たちの姿からは、強烈なパワーが放射されているかのようだ。
その姿はまるでタイムスリップして未来からやって来たアンドロイドのようでもあり、肉体の一部を機械化した「サイボーグ」の趣きも感じさせる。
彼女たち「切断ヴィーナス」の麗姿を眺めていて、ぼくが初めに連想したのは、『攻殻機動隊』の草薙素子だった。彼女もまた、全身義体のサイボーグでありながらきわめてパラフルでビューティフルな印象を与えるキャラクターだ。
第三次世界大戦後の日本の治安を支える「攻殻機動隊」公安九課のリーダーとして、荒くれ者の男たちを従える美と戦いの女神。
番組に次々と登場し、ハイヒールを履いたりスポーツを試みたりする切断ヴィーナスたちの姿を見ていると、彼女のことが思い出されてならなかったわけである。
ここでは、「欠落」というネガティヴな要素が、まさに「美」という「力」に置き換えられている。己の瑕を、嘆きを、苦しみを、そして痛みを隠すことなく、どこまでもさらけ出すことにより、奇妙にサイバーな現代のヴィーナスが生まれる、そのスリリングな興奮。
これこそ、まさにアート。自己表現。素晴らしいとしか云いようがない。「美しく」、「可愛い」、「格好いい」、女性ならではの肉体表現がそこに確立されている。
それでは、あらためて問うてみよう。「美しい」って、いったい何だろう?
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