ども。海燕です。なんかコツコツと更新すると決めてから書きたいことが溜まってしまって、書きまくっています。
実はこれから10日くらいの記事を既に書いて予約しちゃっているので、今後10日間は確実に毎朝7時に更新されつづけます。その後もしばらくは定時更新を続ける予定です。いつまで続くかはわかりませんが……。
ほんとうはこうやって一気に書いてしまうと疲れてあとが続かないことは目に見えているので、毎日コツコツと書いたほうが良いんだろうけれど、いやー、できないんですよね。
とことんぼくは短距離走者というか、中長期的なヴィジョンに基づいて行動できない人だと思う。書きはじめると止まらなくなっちゃうんだよなあ。書かない時はひと月に数本書くのも億劫なくせに。難儀な話でございます。
いやー、何年か前に「戦場感覚」と題した同人誌を作った時は、実は自分が何を云いたいのかよくわかっていなかったんだけれど、ここのところ、「新世界」とかの話をきっかけにして、ようやくまとめることができるようになった。なので、きょうはその話をさせてくださいな。
それでは、「戦場感覚」とは何なのか? 簡単に云ってしまうと、それは「この世が戦場であることを正確に認識し、なおかつその現実に抗い、立ち向かっていく感性」であるということになります。
わかるかな? わからないでしょう。いまのいままでぼくにもわからなかったんだから。解説します。
まず、ぼくの用語を使うなら、ぼくたちは皆、「人間社会のルール」と「自然世界のリアル」が合わさってできた「現実世界」に生きています。
そこではたとえば「死にたくない。愛する人にも死んでほしくない」といったひとの願望によって「人権」という考え方や「ひとを殺してはいけない」というモラル、あるいはルールが作られ、ある程度までは守られています。
だからぼくたちは普段、突然目の前のひとに殺されるかもしれないという心配をしないで生きていけるわけです。ありがたいことですね。
しかし、これはあくまで人間が考えだした「約束事」であって、本質的に「自然世界のリアル」に則った「神の法則」ではありません。
したがって、人間相手にはある程度有効ですが、ライオンには通用しません。津波にも通用しません。病気にも、寿命にも通用しません。同じ人間相手ですら通用しないこともあります。
そして、じっさいにひとはそういうものに殺されて死んでいきます。つまり、この「現実世界」では「人間社会のルール」はある程度までは通用しますが、それでもなお、「自然世界のリアル」を駆逐することはできないわけです。
これは人間にとってある種の敗北だと云えるかもしれません。そしてこういったことは多くの人間にとってきわめて「理不尽なこと」だと感じられます。
たとえば地震で家族を失ったひとや、通り魔に刺されて亡くなったひとは、何か悪いことをしてそうなったわけではないからです。「何ひとつ悪いこともしていないのに突然ひどい目にあう」。そういう辛いことが「現実世界」においてはしばしば起こりうるのです。
それはつまり「人間社会」という網の裂け目から「自然世界のリアル」が噴出した瞬間ということもできるでしょう。また、そういう現実世界を「おかしい」「間違えている」と感じる人もいるはずです。
まさに「現実はクソゲー」です。そして、そういう思いから、人間は「人間社会」と「自然世界」を分かつ「壁」をより高く、より強靭にしようと努力してきました。ひとがなるべく「自然世界のリアル」と直面しなくて済むように。
それが、人間がここ何千年か続けてきた努力だと云ってもいいでしょう。そのおかげでたとえば100年前と比べたら「自然世界のリアル」に晒される機会は圧倒的に減った。「人間社会」と「自然世界」を分ける「壁」はいまやきわめて強靭なものとなったのです。
もう、この社会においては「人間にとって理不尽と感じられること」はあまり起こりません。いや、まだまだいくらでも残っているかもしれませんが、以前に比べれば圧倒的に少なくなったはずです。
たとえばさまざまな制度が整えられた結果、病気で医者にかかることもできず死ぬひとは相対的に減少を続けています。これは「人間の勝利」と云えるかもしれませんね。人々はいまや「人間社会」に手厚く保護されて生きることができるようになったのです。素晴らしいことです。
とは云え、「自然世界のリアル」は決して消滅したりはしません。それは虎視眈々と「壁」に穴が空く瞬間を狙っているようにすら思えます。だから、こんなに医学が発達した社会でも、不治の難病にかかったりするひとはいなくなりません。
それはぼくたちにとっては「理不尽と感じられること」ですが、一方で自然世界においては「普通のこと」であり、「あたりまえのこと」なのです。
さて、ぼくたちはいったいこういう「現実世界」をどう受け止めるべきなのか? ひとつには、あくまでも「人間社会」を守る「壁」を厚く、高くしていくべきだ、という意見が出て来ると思います。
政治を良くするとか、医療を整えるとか、科学を進歩させるとかして、なるべく「理不尽と思われること」が起こらないようにしよう、という発想ですね。
これは一面ではまったく正しいし、また偉いことだと思います。じっさい、そういう努力があるからこそ、ぼく自身、こうしていま安楽に暮らしていけるわけで、人類の「社会を良くしよう」という努力を軽く見ることはできません。
しかし、それでは「自然世界のリアル」とは、なるべくなら直面しないほうが良いものなのでしょうか? それは人間にとって厄介という意味しかないのでしょうか? 実は、ぼくはそうは思わないんですよ。
為末大さんに『諦める力』という本があります。通常、ネガティヴな意味で使われる「あきらめる」ということを、ポジティヴな意味で捉えなおそうと試みている一冊なのですが、為末さんによれば「あきらめる」ことは決して負の意味しか持っていないわけではないということになります。
しかし、こういう見方もあると思います。それはようするに単にあきらめることなく最高の成果までたどり着けなかった者の「負け惜しみ」でしかないのではないか、と。
だれだって、金メダルが取れるならそのほうが良いのでは? あきらめずに済むならそっちのほうがいいに決まっているのでは? つまり、あきらめるとは「自然世界のリアル」に膝を屈することでしかなく、仮にポジティヴな意味があるとしても、それはしょせん敗北主義者の思想に過ぎないのでは?
さて、どう思いますか。人間はいままで「自然世界のリアル」を征服しようと努力してきました。スポーツもまた、そういう努力の一種として扱われることがあるかもしれません。
だから、みごと「人間の努力が結果と結びつくとは限らない」という「自然世界のリアル」をねじ伏せたたかに見える勝利者にのみスポットライトがあたり、敗北者を見つめるひとは少ない。そして人間は「勝利者が最も努力している」と考えがちです。
しかし、為末さんも指摘しているように、これは事実を無視した考え方です。じっさいには、どんなに努力していても勝てないひとは勝てない。最高の努力をしながら最低の結果しか得られないなんてひとは、星の数ほどもいると考えなければなりません。
そういう意味で、スポーツとはこの「人間社会」において、人間の努力は結果とは結びつかないという「自然世界のリアル」が最も端的に示される「リアリズム」の世界です。
決して「努力すれば必ず勝てる」という人間の願いがストレートに叶う願望充足(ナルシシズム)の世界ではありません。
しかし、多くの人々はその酷烈なリアルを見たくないために、勝利者はだれよりもがんばってきたに違いないとか、敗北者は努力を怠ったはずだとかいうふうに「合理化」するのです。困ったことです。
だけどまあ、スポーツの話は置いておきましょう。とにかくこういうふうに、ひとは究極的には「自然世界のリアル」には抗えません。お望みながら「神さまには勝てない」という云い方をしても良いでしょう。
だから、どうしてもどこかで何かをあきらめる必要が出て来るわけです。でも――どうでしょう。それってほんとうに悪いことなのでしょうか?
え、悪いに決まっている? ほんとうに? たしかに、金メダルをあきらめなければならないことや、大好きな異性に好かれないことはネガティヴな意味を持っているには違いありません。
だれだってほんとうは金メダルを取って大好きな異性に好かれてウハウハの世界を送りたいに決まっている。ぼくも送りたい。それが叶わないということはこの現実世界の大いなる欠点だ、現実がクソゲーたる所以だ――そうでしょうか?
いや、あるいはこう云うひともいるかもしれません。仮に金メダルや女の子をあきらめることにポジティヴな意味があるとしても、命をあきらめることにそんなものはない。
もし、「ひとが死なない世界」があるなら、そういう世界のほうが良いに決まっている。だから、「人間社会」が目ざすべきなのは「だれも理不尽に死んだりしない社会」であるはずだ、と。
うーん。そうかなあ。それはつまり、この世に「断念」はないほうが良いと云っているのと同じことです。何ひとつ「あきらめること」がなければそのほうが良いに決まっている?
しかし、ほんとうに「断念」にはネガティヴな側面しかないのでしょうか? ひとにとって「理不尽に感じられること」の極である「死」とは、単に忌み嫌うべき、あるいは克服するべき対象でしかないのでしょうか?
これは、むずかしい問題です。「ひとは死なないほうが良いのか」。グレッグ・イーガンあたりだと「そうに決まっている」と答えるんだけれど、でも、ほんとうにそうなんでしょうかね。
山本弘さんも「死なないほうが良いに決まっているんだよ!」と云っていましたが、実はぼくはそうは思わないんですよ。
ひとは「死」という「自然世界のリアル」が存在するからこそ、成熟していくことができるのではないか、と思うからです。
人間にとって成熟とは何でしょうか? それはまさに「断念」を知るということだと思うのです。自分の限界を知り、どんなにがんばっても叶わないことがあることを知り、世界が自分を中心に動いていないことを知る。それが成熟でしょう。
三歳の子供は世界のすべてが自分の思い通りに動いて当然だと思っているかもしれません。そして、それが叶わないと泣きわめきます。しかし、成熟した大人は当然そんなことはしません。
つまり、成熟とは「自然世界のリアル」を受容し、自己中心的な世界観から抜け出すことだと云っても良いのだと思います。大人になるとはあきらめを知ることなのです。
「あきらめたらそこで試合終了だよ」。しかし、あきらめず最後まで戦ったからといって勝てるとは限りません。三井寿は奇跡の逆転シュートを決めましたが、そういうことはじっさいにはめったにないのです。
つまり、どこまでも「自然世界のリアル」を避けつづけるということは、成熟の機会を逃がすとうことなのです。もしもいつか「死」が克服されたなら、おそらく、人間はいまよりずっと子供っぽくなるでしょう。そういうものだと思います。
あるいはペトロニウスさんなら、人間にとって「自然世界」とは究極的な「他者」であり、その「他者」と直面することによって「ナルシシズムの檻」を脱出することができる、という表現をするかもしれませんね。
つまり、「どこまでも断念することなくはてしなく欲望を満たしつづけること」は、一見、素晴らしいように見えても、ひととして成熟する機会を逃すことに繋がっているわけです。ひとは断念を通してのみ新しい自分を知ることができる、とも云えるかもしれない。
ただ、こう書いてもすぐに疑問が湧いてくるに違いありません。たとえ「安楽で穏やかな死」を肯定できるとしても、この世にはもっと残酷なことや悪夢のようなことが転がっている。お前はそれも肯定されるべきだというのか、と。
たとえば、イスラエル軍の攻撃によってパレスチナの子供が殺されていくこと、東日本大震災の大津波によって無辜の人命が失われたこと、あるいはナチスのガス室や広島の核爆弾はどうだ? それらも「人間の成熟のために必要だから肯定されるべきだ」というのか? それでもお前は人間か? というふうに。
ここで、ぼくは悩みます。たしかにそれらはあまりに残酷で悪夢的で、とても肯定できるはずもない。しかし、それらを拒否するなら、そもそもどこに「線」を引くべきかという問題が生まれてしまう。
「核攻撃による無残な死」を肯定できないとしたら、そもそも「死そのもの」も肯定できないのではないか?とかね。やっぱり「自然世界のリアル」なんて人間にとってないほうが良い、あるいは最小限であるべきものなのだろうか、しかしそれではひとは決して大人になれず、ナルシシズムにひたって生きていくしかない。うーん、悩ましいところです。
しかし、少なくとも云えることは、「「自然世界のリアル」から逃れ切ろうとすることは間違えている」ということではないのかと思うんですよ。
つまり、「理不尽な苦しみ」を完全に排除してしまうことは間違えている、ということです。「理不尽な苦しみ」が完全に克服された社会は、理想郷であるように思えるかもしれませんが、しかしやはりそれはひとが「他者」と出会い、成熟していく可能性が閉ざされた自己愛の宇宙です。
ぼくもありとあらゆる理不尽を放置するべきだとは思いません。それは極論です。しかし、その一方でありとあらゆる理不尽が追放されるべきだとも思わない。
ひとは「自然世界」という他者に向き合うべきだと思うのです。そうしないといつまでも寂しいままだ。
栗本薫は「ひとが孤独でなくなるとはどういうことなのか?」というテーマに生涯を賭けて挑んだ作家ですが、その彼女にに『レダ』という作品があります。
まさにここでいうところの「自然世界のリアル」がことごとく克服された社会が舞台となっている物語です。しかし、主人公であるイヴは最後にはその理想都市を出て、スペースポートから「外の世界」へ旅立ってしまうのです。
これはもろにペトロニウスさんが云うところの「ナルシシズムの檻からの脱出」の文脈ですね。ナルシシズム的な理想都市に住んでいるかぎり、ひとは傷つくこともないし、苦しむこともない。あるいは、予定調和の範疇で傷つき、苦しむことができる。
だけれど、そこには「他者」がいない。ほんとうにひとと触れ合う感動がない。だから、どんなに理不尽であるとしても、狂った世界であるとしても、イヴはあくまでも「現実」を選ぶのです。それはまさに「大人の選択」です。
ぼくが云っていることがわかるでしょうか? ひとは「世界が自分の思い通りにならない」という無力感を通してのみ大人になっていくということなのです。
だから、この世界が理不尽であり、「自然世界のリアル」が存在するということは、人間にとって祝福なのです。たとえ、それが一面で恐ろしく辛く苦しく、逃げ出したいものだとしても。
そして、「断念」を知り、「他者」と出会い、ひととしてほんとうに「成熟」するとき、人間は決してひとりではありません。なぜなら、同じようにこの世界で生きている「仲間」たちが視界に入って来るからです。
これこそが、栗本薫が追い求めたテーマ、「ひとはどうすれば孤独ではなくなるのか?」に対するぼくなりのアンサーです。
ひとはどうしようもなく孤独だ、しかし、同じように孤独に苦しんでいる「他者」と出会い、触れ合うとき、その孤独の檻を脱してひとと触れ合うことができる。
その「他者」はまさに「他者」である故に、決して自分の思い通りには動かない。しかし、そういう「他者性」を受け入れて初めて、ひとはだれかを愛することができる。ぼくはそう思います。
だから、この世界が酷烈で残酷な「戦場」であることは決して間違えたことではないのです。むしろ、世界の戦場性(自然世界的なるもの)が消滅した社会こそ、ほんとうにひとが孤独な地獄だと云えるでしょう。あるいはそれを楽園と云うひともいるかもしれませんが……。
だから、ひとがこの現実世界という牢獄のなかで一生涯戦いつづけ、そしていつしか倒れて死んでいくしかないということ、それはある意味で「正しいこと」なのです。
少なくともぼくはそう考えている。たしかにこの世は残酷で苦難に満ちているかもしれないが、その一方で限りなく豊饒でもある。そして残酷さを否定するなら、豊穣さもまた失われるに違いない。
その「この世界の理不尽な残酷さ」を受け入れ、戦いつづける意志、それこそがぼくの云う「戦場感覚」です。その戦いとは、あるいは病身を治療しようとすることかもしれませんし、ピアノを修練することかもしれません。あるいは銃を手に革命のため立ち上がることかも。ただ生きることかも。
ともかく、大切なのは勝利することではなく、戦うことそのものです。押し付けられた運命を相手にまわして、どこまでも戦いつづける。永野護の『ファイブスター物語』では、それを「壮麗なる抵抗(マジェスティック・スタンド)」と呼びます。ぼくはそういう人間をこそ美しいと思う。
そういうことなのです。伝わるかな?
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さらにその半年前に出した同人誌『BREAK/THROUGH』もやはり800円です。
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