よくいわれることだが、小説においては、かならずしも物語が唯一の本質ではない。しかし、それは普段読書しないひとや、物語性を重視した作品を中心に読んでいる人には、納得しがたい言い草かもしれない。そんな方も、レーモン・クノーの『文体練習』を読んでいただければ、非物語中心的な小説の面白さをわかっていただけると思う。
この作品の「物語」は単純だ。ある混雑したバスのなかで、一人の若者が、となりの乗客に腹を立てて絡む。そして、その2時間後、かれが連れの男に服装のことで助言されているところを「私」が見かける。これだけ。
物語と呼ぶことも恥ずかしいような、日常の平凡なワンカット。しかし、この貧弱な骨格に、作者は実に99通りのやり方で肉付けしてみせる。具体的に見て行ってみよう。「私」がバスのなかで帽子をかぶった若者に目を留めるまでの事を、「客観的に」書くとこうなる。
ある日の正午頃、モンソー公園のあたりを走るほぼ満員のS系統のバス(現在の八四番)の後部デッキで、私は非常に長い首をしたひとりの人物の姿に注意を引かれた。リボン代わりに編み紐を巻きつけた柔らかいフェルト帽をかぶっている。
小説の文章としては少し寂しいが、簡潔で過不足ない文体といっていい。ところが、その同じ出来事が、「荘重体」という文体では、このようになる。
暁の女神のばら色の指がひび割れを起こしはじめる時刻、放たれた投げ槍もかくやと思われんばかりの素早さでわたしは乗り込んだ、巨大な体軀に牡牛のごとき眼(まなじり)を備え、うねうねと蛇行する道を行くS系統の乗合バスに。戦いに望まんとするインディアンのごとく鋭敏にして正確なる我が目は、その車中にひとりの若者の存在を捉えた。駿足のキリンよりもなお長き首を備え、中折れのフェルト帽に編み紐を巻いたその勇姿は、まさしく文体練習の主人公そのものであった。
やたら大袈裟で格調高い美文になっていることがわかると思う。日本語ではわかりづらいけれど、原文はホメロスの『ホメロス』『オデュッセイア』を意識しているらしい。
で、その反対の「俗悪体」はこんな感じ。
昼はちょいと過ぎでたんだけどよう、やっとこ、Sに乗ったのさ、そいで、もち、金を払ってよう、したら、間抜け野郎がいやがってよう、首ばっか長くって、ばっかみてえなもん、かぶってよう、紐巻いてんだぜ。
これくらいは序の口。同じ光景が「女子高生」の口調で語られるとこうなる。
ねえねぇ、この前さぁ、お昼にぃ、バスとかのぉ、うしろのぉ、デッキでぇ、変なやつをぉ、見たんだけどぉ、首がぁ、すっごく長くてぇ、帽子とかにぃ、編み紐みたいなのをぉ、巻いてんのぉ。むかつくじゃんん。
さらに、「歌の調べ」に乗せて語られるとこうなる。
バスはゆくゆく
バスはゆく
S系統の
バスはゆく
通りを抜けて
くねくねと
ガタゴトバスは
揺れてゆく
日差しも暑い
昼ひなか
お客を乗せて
バスはゆく
帽子かぶった
年若い
首なが男を
乗せてゆく
ああバスはゆく
バスはゆく
笑えるところでは、「ちんぷん漢文」というものもある。
正午太陽在中天 巴里猛暑御見舞
貴賎不問是発汗 乗合大車揚砂塵
頭部看板其名S 後部開放台混雑
吾見奇天烈若者 小生意気青二才
其首細長如麒麟 其帽子周巻編紐
漢詩のスタイルで書かれているわけだけれど、勿論、もっともらしいだけのいんちき漢詩である。原文はラテン語のパロディらしい。
あと、「前から後ろから」もひどい。
ある日 前から後ろから お昼に 前から後ろから バスの 前から後ろから 後ろの 前から後ろから 混んでる 前から後ろから デッキで 前から後ろから リボンの 前から後ろから 代わりに 前から後ろから かぶった 前から後ろから 長い 前から後ろから 首の 前から後ろから 男が 前から後ろから
いや、意味わからないよ!
あとまあ、数学的な「集合論」とか、ルー大柴そのものの「英語かぶれ」とか、英文もどきで書かれている「イギリス人のために」とか、色々おもしろい文体があるんだけれど、際限がないのでやめておく。
とにかく、この作品を読んでわかることは、ひとつの事実に対して無限の語り口があり得ること、否、むしろ小説における「事実」とは、語り口によって形づくられているということである。
「物語」という切り口で見ればこの作品は限りなく貧弱だが、しかし、その語り口は途方もなく豊かだ。こういう小説もあり得る。
しかし、これ、書くほうも書くほうだけれど、訳すほうも訳すほうだよな。文学ってけっこう、何でもありです。
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村上春樹風とか、京極夏彦風とか、そういうのを想像してました。