どもっす。ここ最近、「健康」とか「ちゃんとする」とか「こじらせる」とか「キモチワルい」とかいくつかテクニカルタームが出て来ているので、ここら辺で解説記事を書いておこうと思います。

 くり返しますが、このブロマガの最大のテーマは「健康」です。もう少しわかりやすく書くと、「この病んだ社会でほんとうに健康であるとはどういうことか? どうすればそういう状態でいられるのか?」ということになります。

 この場合の「健康」とは「心が健やかであること」を意味していることは云うまでもありません。つまりは、どうすれば病んだ社会でなお、健やかな心を保っていられるかということをずっと考えているのです。

 しかし、そもそも心が健康であるとはどういうことでしょう? ぼくなりの答えをひとことで云うなら、それは「不安がない」ということに尽きます。

 一切の不安や恐怖から自由な状態を、ぼくは「健康」と称しているわけです。そして、健康でありつづけることを「ちゃんとする」と云い、そういう人物を「ちゃんとした大人」と呼んでいます。

 この場合の不安とは、主に、あしたの結婚式でうまくスピーチできるかどうか不安だとかいう「具体的な不安」というより、もっと漠然として正体がわからない「理由のない不安」を指しています。

 正確には、それはほんとうはどこかに理由があるはずなのであり、「理由のわからない不安」というほうが正しいのでしょうが、主観的にはあくまで「理由のない不安」であることが多い気がします。

 あなたは、特に具体的な問題が差し迫っているわけでもないのに何となく不安で、焦ったりすることはないでしょうか? もし、「そんなことは一切ない。いつも安心していられる」というのなら、おめでとう、あなたはほんとうに成熟した大人なのかもしれません。

 ぼくはあなたのようなひとになりたいのです。あるいは「自分を騙してごまかしているだけ」ということも考えられますが……。

 この「理由のわからない不安」は、いわば「抽象的な不安」であり、具体的な解決策がありません。最も根本的な解決策は、その不安の原因となっている「心の穴」を突き止めて、それを直視し、それと付き合っていく覚悟を決めるということなのですが、これは非常にタフな作業で、なかなかひとはそこまでできません。

 だから、色々なことでその不安や焦燥にふたをしようと躍起になるのです。たとえば、何十人、何百人もの女性とセックスして、そのことを勲章のように考えたり(ヤリチン)、何らかのモノや概念に耽溺して現実逃避したり(オタク)、恋人を支配しようとして暴力や暴言を振るったり(DV)、恋愛幻想に過度にのめり込んだりします(ストーカー)。

 で、ここが重要なのですが、決して「その行為そのもの」が問題なのではありません。べつだん、たくさんの女性と性関係を結ぶことも、モノや概念に耽溺することも、それ自体は悪くないし、恋愛することそのものももちろん何も悪くない。暴力もSMプレイくらいに収まっているなら問題ない。

 ただ、逃避からそういう行動を取っているということが問題なのです。ひとは、かれがほんとうに解決するべき問題である「理由のわからない抽象的な不安」から目を逸らし逃げつづけている限り、「ちゃんとする」ことはできません。いつまでも不安なままです。

 だから、「ちゃんとしたヤリチン」や「ちゃんとしたオタク」になることができず、周囲の人間を傷つけたり、あるいは周囲からキモチワルいひとと見なされたりします。

 そして、ほんとうの問題はそのひとが「ちゃんとした自己肯定」をできていないところにあるわけです。

 あるいは、場合によってはそのひとは傲慢なほど自信たっぷりに見えるかもしれません。「自分はこんなにたくさんの女性とセックスした」とか、「こんなに仕事ができて有能なのだ」とか、「こんなに役に立たない知識をたくさん持っていて、しかも趣味が良い」といったことにプライドを抱いているひとはたくさんいますよね。

 しかし、そういうひとも、「理由のわからない不安」そのものを根本的に解決できている「成熟した大人」であることは稀です。ほんとうに大人なら、いちいちひとに自慢したり、ひとを見下したりしなくても十分に誇り高くありえるはずですから。

 結局、そういうひとたちはほんとうの意味で問題を解決することなく、ただ不安にふたをして、最大の問題から逃げ、ごまかして「インチキな自己肯定」をしているに過ぎないのです。

 しかし、いくらふたをしたところでそのひとが「ちゃんとしていない」事実に変わりはありませんから、それはそのひとの依存心や攻撃性や冷笑癖や不全感となって表れます。

 とにかく常に何かで「心にぽっかりと空いた穴」を埋めつづけていないと不安でたまらないのです。ぼくの場合は「読書」という行為がそれにあたりました。

 とにかく不安で仕方ないので、ひたすら本を読むことでそれを解決しようとしたのです。いまならわかりますが、それはやはり逃避であり、ごまかしでした。もちろん、それによって得た力はいま、血肉になってはいますが……。

 つまりは、理由もなく攻撃的だったり、冷笑的だったりするひとは、心に何らかの問題を抱えていることになります。そのひとが外面上、いくら「リア充」に見えても事実は変わりません。

 ぼくが考える「健康」で「ちゃんとしている」ひと、つまり「ほんとうのリア充」は、いちいち「おれの生活は充実しているぞ!」と叫んだりしないものです。

 そういう「自分とひとを比較して自慢する癖」もまた、「そうしていないと不安でたまらない」心の表れだからです。「ほんとうのリア充」、「健やかに成熟した大人」はいつだって穏やかで優しく、寛容なものです。

 ただ、「ほんとうの大人」と「そういうふりをしているだけの似非大人(インチキな大人)」は、一見して区別がつかないこともあります。

 ひとつはっきりしていることは、「ほんとうの大人」は、常にものごとを具体的に受け止め、対処し、解決していけるということです。

 たとえば同じ「異性にモテない」という問題であっても、それを具体的に捉えているひとと抽象的に捉えているひとでは解決策が異なります。

 問題を具体的に捉えているひとは、「それでは、どうすれば良いのか?」とどこまでも具体的な解決策を探っていくことができます。一例を挙げるなら、「外見に問題があるのだから、外見を何とかしよう」と考えることもあるでしょう。

 その場合も、整形するとか、ダイエットするとか、エステに行くとか、身だしなみを整えるとか、ファッションに凝るとか、色々な方法があって、順番に試していくことができます(試さないこともできます)。

 もちろん、ありとあらゆる手を尽くしてなお問題が解決しないという結果もありえますが、おそらく、試行錯誤をくり返すうちにまた違う展望が見えて来て、さらに色々な解決法を練ることができるでしょう。

 「問題は外見ではなくコミュニケーション能力にあるから、それを鍛えよう」というように。そしてそれでもなおどうしようもなかった時には「あきらめる」という選択肢もある。ともかく、視界は常にクリアで、「理由のわからない問題」は存在しないのです。

 一方、