天才的な棋士であり、なおかつ常に努力を怠らない零くんの義理の母親になった女性の目を通して、「ひたすらに努力しつづけること」に憑かれた人間がいかに特別で、そうでない人間と違うものなのかが綴られています。
その描写は、残酷です。そこで描かれているものは、「ひとは決して平等ではない」、「まったく同じ外的環境に置かれていてすら、志ある者とそうでない者の間では大きな差が生じてしまう」ということだからです。
云ってしまえば、ひとには環境の格差以上の内面の格差、もっと云うなら「魂の格差」が存在しているということ。
その非情な事実を正面から描いているという一点において、このエピソードは『3月のライオン』中の白眉というべき話になっていると思います。
普段、この物語は、そういう「志ある者」たちだけに焦点を絞って描いているところがあるので、それはさほど特別なことのようには見えません。
しかし、じっさいに「志なき者」を視野に入れ、かれらと比べてみると、零くんという少年は、ほとんどモンスターのように異質なのです。
常に、耽溺するように努力しつづける少年と、現実から目をそらし、すべてを他人のせいにして、逃げまわる姉妹。その冷酷なまでの対比には、「魂の格差」というものがいかに大きく、しかも絶対的なものであるかが込められています。
ひとには、そういうどうしようもない格差があらかじめ組み込まれているのだなあ、とため息をつかざるを得ません。それは環境の格差ではないことはもちろん、才能の格差ですらない。自分の存在そのもののクオリティの差なのです。
どこまで真摯に自分を追い込み、不確定な可能性に賭けて人間の最大の資産である時間を蕩尽することができるか、というその能力の落差。
もちろん、その格差も周辺環境に大きく依存するのだということはできる。「インセンティヴ・ディバイド」という言葉があるように、結局は優れた環境に置かれた者ほど高いモチベーションを持って努力することができるものなのであり、すべてが本人の責任ということはできないのだ、と。
ですが、それなら、より酷烈な環境に置かれていたはずの零くんが逃げず、惑わず、ひたすら自分を鍛え上げ、自立していったことをどう説明するべきでしょう?
かれよりよほど良い環境に置かれていたはずの義理の姉弟が、より安易な方向に逃れ、自分を偽って好きなように暮らしたことをどのようにいい訳すれば良いのでしょうか?
ひとはたしかに環境に影響され、外部要因に支配されるものです。ほんとうに酷烈な環境においては、十分に偉大な才能もついに芽を出すことはできないかもしれない。
しかし、それでもなお、最後の最後には「すべて自分しだい」であることも事実なんですよね。すべてが「自己責任」であるはずはなくても、同時に何もかも「ほかのだれかが悪い」こともありえない。
否――仮にそうだとしても、だからといって自分の人生を放棄してしまうわけには行かない。逃げれば、逃げたぶんだけ、ごまかせばごまかしたぶんだけ、「逃避の代償」や「怠惰の負債」が溜まってゆく。
『3月のライオン』はそういうきびしい現実のなかで、それでも自分をきつく律し、信じがたいような「高み」を目指す人々を描いてゆきます。
しかし、一方で、「そうでない人々」との「魂の格差」は実に巨大なものになっていくよりほかないのです。
つくづく思うのは、おそらくはインターネットはそういう救われない人々の最期の救済の砦として機能するのだろうな、ということです。
ネットでなら、
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