さて、既に書いた通り、「最新刊」である第131巻『パロの暗黒』において、物語は書き手を変えました。それからしばらく経って、ぼくはいま思います。やっぱりぼくはこの巻が不満だったんだな、と。
不満、と云うと違うでしょう。主観的に見ても客観的に見ても、『パロの暗黒』はアベレージを超えた出来です。
もちろん、「栗本薫の『グイン・サーガ』そのまま」とは行かないにしろ、それはあたりまえのこと、だれが書いたとしても「栗本薫の『グイン・サーガ』」にはならないに違いない。それは太宰治や三島由紀夫の小説を蘇生させるわけにいかないのと同じことです。
それなら、何が不満なのか? そうですね――たぶん、何も不満はないのだと思います。
イシュトヴァーンが違う、ヴァレリウスが違う、と言挙げすることはできる。そして、ここに欠点がある、あそこに問題がある、と指摘してゆくこともできる。
しかし、それを云うなら第130巻までの『グイン・サーガ』だって色々と無理も欠点もあったでしょう、という話になる。まあそれはその通りなんですよ。
その上で、ぼくは新しい「五代ゆうの『グイン・サーガ』」には馴染むことができない。ああ、と思うのです。何かが違う。世界の空気が違ってしまっている、と。
とは云え、いままでの『グイン・サーガ』も大きく変わってきたことはたしかなので、それをいまさら問題視するのは間違えている。
そう――おそらく、時が来たということなのでしょう。ぼくがこの物語と別れる時が。どう考えても、五代さんに非はないのです。いや、あるのかもしれないけれど、それがいままでの栗本さんの『グイン』に比べて絶対的に大きいかというと、そんなことはない。
だから、「五代ゆうの『グイン・サーガ』」が悪いわけではまったくないのです。だけれど、ぼくはこの物語に付いていけないものを感じ取ってしまう。それはぼくの側にこそ理由があるのだということになります。
いままでも多くの読者が『グイン・サーガ』から離れて来ました。ある人は激怒とともに。またある人は怨嗟とともに。しかし、いま、物語から離れようとしているぼくに、怒りも恨みもまったくありません。
あるものは、そう、ただ、透明な哀しみ。寂しさ。ぼくはただ、物語が変わってしまったことが哀しく、寂しい。親しい友人に置き去りにされたような哀しさです。
ひとは変わってゆくものであり、物語もまたそうであり、いつかは別れて去らなければならない、とわかっていながら、それでも消えやらない愛惜。
おそらくぼくはいま、ひとつの物語の葬儀に立ち会っているのだと思います。「栗本薫の『グイン・サーガ』」という物語の葬儀に。
「五代ゆうの『グイン・サーガ』」の誕生を寿ぎ、その未来に期待をかけるひともまた多いこともよくわかる。しかし、そうは云っても、ぼくはやはり何十年にもわたって付き合ってきたひとつの物語の死が、終焉が哀しい。その世界からはじき出されてしまったことが辛い。
もちろん、もっと早く、たとえば第50巻の時点で「『グイン・サーガ』は死んだ」と云って去っていったひともいることでしょう。ある意味では、そういうひとと同じ哀しみを、ぼくはいま、感じているのかもしれない。
栗本薫が全130巻にも及ぶ『グイン・サーガ』において描き出そうとしていた最大のテーマとは、「時は過ぎ、そしてすべては変わってゆくのだ」ということでした。
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