海燕さん、こんにちは。今回は文章がかなり長くなってしまってすみません。 私がこの歌詞を読んだ時、最初に思ったのは「虐待されても母親を嫌いにならずに、なおも求め続けずにはいられないとは、なんたる悲劇だ!」でした。歌詞だけでは海燕さんの言うシニカルさは感じませんでしたが、曲も聴くと確かにそのようにも受け取れるように思えました。 でも、少なくとも「虐待を肯定している」とは感じませんでした。実際に虐待を受けた人は神経過敏になっているだろうから、そのように受け取ってしまうのも仕方がないのかもしれません。でも、そうでない人が「虐待肯定ソング」としか受け取れないのは、残念ながら視野が狭いな、と思ってしまいます。 この歌を虐待肯定ソングとして断ずることは、歌詞中の「ぼく」の母親への思いを認めない、言っているようなものです。これではこの歌に限らず、他の多くの作品を十分に楽しめないだろうから、もったいないと思います。 また、この歌を好意的に受け止めた人を否定的に捉える意見も多いようですね。私はこの曲を聞いて泣いたりした人が、即ち虐待に無関心な人であるとか、虐待を肯定をしだすとは簡単には思えません。この曲を聞いたくらいで「虐待してもいいんだ」と解釈する人は、もともと考え方が特殊な人なのでは? 今氏は表現者の知らないところで、自分の作品によって傷つく人がいないか警戒しなければいけない、と言いますが、それは現実的に不可能です。もちろん、明確な悪意を持って誰かを傷つけようとしたり、意図的に誰かをだますようなことはしてはならないでしょう。 しかし、どんなに気を遣ったところで、たくさんの人に触れられれば、作者の意図しない解釈はどうしてもされしまう。 ドラえもんで例えるならば、のび太がいじめられるシーンを読んでトラウマがよみがえった、という人もいるかもしれない。これすらも防ぐためには、もう全ての作品や言論を、世間に公表することをやめなければいけなくなります。 すごい作品というのは、良くも悪くも衆目を集めます。逆に、どんなに作者ががんばっても、世間から全く見向きもされない作品もあります。それを考えると、文月メイという人は才能がかなりあるのかもしれません。
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海燕さん、こんにちは。今回は文章がかなり長くなってしまってすみません。
私がこの歌詞を読んだ時、最初に思ったのは「虐待されても母親を嫌いにならずに、なおも求め続けずにはいられないとは、なんたる悲劇だ!」でした。歌詞だけでは海燕さんの言うシニカルさは感じませんでしたが、曲も聴くと確かにそのようにも受け取れるように思えました。
でも、少なくとも「虐待を肯定している」とは感じませんでした。実際に虐待を受けた人は神経過敏になっているだろうから、そのように受け取ってしまうのも仕方がないのかもしれません。でも、そうでない人が「虐待肯定ソング」としか受け取れないのは、残念ながら視野が狭いな、と思ってしまいます。
この歌を虐待肯定ソングとして断ずることは、歌詞中の「ぼく」の母親への思いを認めない、言っているようなものです。これではこの歌に限らず、他の多くの作品を十分に楽しめないだろうから、もったいないと思います。
また、この歌を好意的に受け止めた人を否定的に捉える意見も多いようですね。私はこの曲を聞いて泣いたりした人が、即ち虐待に無関心な人であるとか、虐待を肯定をしだすとは簡単には思えません。この曲を聞いたくらいで「虐待してもいいんだ」と解釈する人は、もともと考え方が特殊な人なのでは?
今氏は表現者の知らないところで、自分の作品によって傷つく人がいないか警戒しなければいけない、と言いますが、それは現実的に不可能です。もちろん、明確な悪意を持って誰かを傷つけようとしたり、意図的に誰かをだますようなことはしてはならないでしょう。
しかし、どんなに気を遣ったところで、たくさんの人に触れられれば、作者の意図しない解釈はどうしてもされしまう。
ドラえもんで例えるならば、のび太がいじめられるシーンを読んでトラウマがよみがえった、という人もいるかもしれない。これすらも防ぐためには、もう全ての作品や言論を、世間に公表することをやめなければいけなくなります。
すごい作品というのは、良くも悪くも衆目を集めます。逆に、どんなに作者ががんばっても、世間から全く見向きもされない作品もあります。それを考えると、文月メイという人は才能がかなりあるのかもしれません。