ぼくのことが邪魔なの?あのゴミ袋と一緒に捨てるの?生きることが辛いの?頼る人が誰もいないの?
全文は以下で。
この曲に込めた思いを綴ります。虐待のニュースを頻繁に耳にする昨今。自分の子どもを殺すという異常な行為、人間が人間でなくなる瞬間にあるものは「愛の欠乏」ではないでしょうか。子どもから親への揺るぎない「無償の愛」を、一人でも多くの心を失いかけている人に伝えたい思いから「ママ」が出来上がりました。
当事者に非常に近い友達でも当事者の気持ちはなかなかわからなかったりする。私も私を愛してくれる10年来の友達にすらACを理解してもらうのは難しい。けど文月メイさんの歌をキモチワルイと最初から言っていた友人は何人もいた。感覚って大事。なんで「ごめんね」なんだろ。こういう被DV思考が間違ってるってことを伝えなきゃいかんのではないだろうか。なんで「嫌いになったりしない」んだよ。虐待しても子どもは愛情をもって赦してくれると言いたいのか...?ここで話題になっている文月メイさんの歌の歌詞をググって見た。正直なところ、違和感と独り善がりだけだった。どこが良いのか、さっぱり解らなかった。児童虐待から生き延びた人たちは、怒りに震えているのではないか。
その歌では、わが子を虐待した後でゴミと一緒に捨て死なせた母親に、殺された子どもが「ぼくには、たった一人のママ 嫌いになったりしないよ」と言う部分などが、親から虐待された経験のある当事者たちから続々と不快感を示されている。中には、「この歌で泣いた」という反響を見たために、虐待に対する世間の無関心ぶりに絶望感を覚えて自傷行為に及んだり、気分障がいを起こしたり、虐待されたトラウマの記憶に不意に襲われたというリスナーもいた。こうなると、もはや公害だ。「児童虐待への気づきになれば」という趣旨を宣伝文句にするなら、いま流行の「偽装表示」もの。解釈自由の歌という商品だからこそ、発売元のユニバーサルミュージックジャパンの社長が謝罪会見をしなくて済んでいる。(※児童虐待防止月間の1ヶ月前に発売してるんだから、その商売っ気で謝罪会見を開いて宣伝すればいいのに)
表現の自由は、自分が表現した作品に対する受け手の反応を受け入れる覚悟ができない限り、拡張できない。受け手を傷つければ、恨まれたり、殴られたりするかもしれない。そうならないよう、世に出す前に作品を「編集」したり、自分が題材にした当事者から感想をもらうのは、表現者が自由に表現するために必要なスキルだ。だが、表現者がむしろ警戒すべきなのは、表現者が知らないところで、自分の作品によって責められているように感じ、傷ついた人が不安や恐怖に苦しみ続け、誰にもそれを言えないまま死んでしまうことではないだろうか?『ママ』のレコード会社や制作責任者のプロデューサは、歌詞に描かれた「虐待死」を犯してしまった親たちに発売前に聞かせただろうか?その配慮をせず、「賛否両論を呼べば話題が広がって売れる」と見込んで、未熟な詞のまま新人に歌わせたなら、矢面に立つ歌手にだけ責任を負わせるひどいデビューだ。
ここから先は有料になります
ニコニコポイントで購入する
チャンネルに入会して購読する
- この記事は過去記事の為、今入会しても読めません。ニコニコポイントでご購入下さい。
コメント
こんばんわ。少し長くなりますがコメントさせていただきます。
確かに歌詞を見てみると賛否両論というか否の方の声が大きくなりそうな歌詞だなあとは感じました。ぼく自身ちょっとどうなんだろう…と感じるところはありましたし、児童虐待という繊細な問題をテーマにした歌詞にするということに対して文月メイさんは考えが足りなかったんじゃ?と思うところもあります。なので気持ちが悪い歌詞だ!と批判する人が出てくることは個人の感想ですししかたのないことだと思います。
でも「その表現を気持ち悪いと思う人がいるかもしれないんだから表現者は内容を編集するなりして気を使うべきだ!」という発言をするのはさすがにどうかと思いますね。「気持ち悪く思う人間が(自分以外にも)たくさんいた」ということを大義名分にして「自分の気に入らないものを自分の目に入れないようにしろ!」とわめくクレーマーにしか思えません。
このへんも自分の周囲や身内だけでなくFacebookやTwitter、ブログなどを使って自分と同じような「気持ち悪い!」という意見を探しやすい今の社会の弊害なのかもしれませんね。
てっきり歌詞の内容について話していると思って読んでみたら編集についての話だった。
今一生氏の言っていることは「出す前にちょっとは考えろよ」以上のものではないので、海燕さんがそれに「表現規制」を見て取るのはちょっと違うな、とは思う。
見る限り今氏は「この責任は今月にはない、彼女を『監督』しなかったメーカー側にある」と言いたげ(歌には批判的ではあるけれども文月に対しては妙に擁護的)なので、そうしたスタンスがつい「編集」、つまり「みんなで相談しろよ」というニュアンスで出てしまった感はある。
しかし児童ポルノ問題などを鑑みても、ここは重要な問題点にはなり得ると思う。
フェミニストたちは「表現の自由を守る」と称しつつ、「しかし女性差別的な表現は『編集』せよ」と平気で言っているのだから。
(ID:8513214)
海燕さん、こんにちは。今回は文章がかなり長くなってしまってすみません。
私がこの歌詞を読んだ時、最初に思ったのは「虐待されても母親を嫌いにならずに、なおも求め続けずにはいられないとは、なんたる悲劇だ!」でした。歌詞だけでは海燕さんの言うシニカルさは感じませんでしたが、曲も聴くと確かにそのようにも受け取れるように思えました。
でも、少なくとも「虐待を肯定している」とは感じませんでした。実際に虐待を受けた人は神経過敏になっているだろうから、そのように受け取ってしまうのも仕方がないのかもしれません。でも、そうでない人が「虐待肯定ソング」としか受け取れないのは、残念ながら視野が狭いな、と思ってしまいます。
この歌を虐待肯定ソングとして断ずることは、歌詞中の「ぼく」の母親への思いを認めない、言っているようなものです。これではこの歌に限らず、他の多くの作品を十分に楽しめないだろうから、もったいないと思います。
また、この歌を好意的に受け止めた人を否定的に捉える意見も多いようですね。私はこの曲を聞いて泣いたりした人が、即ち虐待に無関心な人であるとか、虐待を肯定をしだすとは簡単には思えません。この曲を聞いたくらいで「虐待してもいいんだ」と解釈する人は、もともと考え方が特殊な人なのでは?
今氏は表現者の知らないところで、自分の作品によって傷つく人がいないか警戒しなければいけない、と言いますが、それは現実的に不可能です。もちろん、明確な悪意を持って誰かを傷つけようとしたり、意図的に誰かをだますようなことはしてはならないでしょう。
しかし、どんなに気を遣ったところで、たくさんの人に触れられれば、作者の意図しない解釈はどうしてもされしまう。
ドラえもんで例えるならば、のび太がいじめられるシーンを読んでトラウマがよみがえった、という人もいるかもしれない。これすらも防ぐためには、もう全ての作品や言論を、世間に公表することをやめなければいけなくなります。
すごい作品というのは、良くも悪くも衆目を集めます。逆に、どんなに作者ががんばっても、世間から全く見向きもされない作品もあります。それを考えると、文月メイという人は才能がかなりあるのかもしれません。