ライフヒストリーの社会学

 ぼくは今年、35歳になる。平均寿命まで生きることができるとしても、長い人生ももうそろそろ半ばを過ぎようという辺りだ。そしてこの歳になってようやく、少しだけ大人になってきたのではないかと思う。

 もちろん、人並みのことは何もできないぼくだから、人間的にどれほど成熟しているかといえばまだまだではある。ただ、それでも若い頃と比べると、やはりいくらか成長していると思うし、変わってきていると感じる。

 そのひとつとして、自分の人生を振り返ってみて、自分の加害性に気づいたということがある。ぼくは長い間、自分の過去を被害者の人生として位置づけてきた。ああいうことがあった、こういうことをされたということばかり考え、そのたびに憤り、踏みつけにされた自分を悔しく思った。

 それはたしかに間違いではなかったといまでも思う。ぼくはたしかに色々とひどい目に遭いもしたし、それは忘れられない記憶となって脳裏にこびりついている。何もかも自分のせいだとか、相手は自分のことを思ってやってくれたのだ、と考えることは、いくらなんでも自虐的に過ぎるだろう。被害は被害であるには違いないのだ。

 しかし、34歳になったいま、初めて違う視点も出てきた。それは、ぼくの人生も被害ばかりではなかったはずだ、という視点である。つまり、被害者としての人生の裏側に、加害者としての人生が存在するはずだ、と考えたのだ。

 そう思って振り返ってみると、色々と、自分が加害者としてやってきたひどいことが思い浮かぶ。小学生の頃、後輩をいびったこともあったし、女の子を泣かせたこともあった。大人になってからも、ひとを傷つけたり、怒らせたり、不快にさせたことは枚挙に暇がない。

 ひとつひとつはもの凄く悪いとまではいえないことであるにせよ、とにかく加害の記憶であることに違いはない。ぼくは被害者であると同時に、加害者でもあったのだ。そのことが、34歳にもなって、ようやくはっきりと受け止められるようになった。

 いままでも薄々とはわかっていたのだが、被害者としての自分に固執するあまり、見まい見まいとして生きてきたのだ。だからどうだというわけではない。被害と加害はそれぞれ別物である。それでとんとん、ということになるはずもなく、ぼくの人生を踏みつけにした人々はやはり怨めしい。

 ただ、自分は被害者であると同時に加害者でもあったと思い、ひとに傷つけられてきたと同時にひとを傷つけてもきたと考えるとき、ほんの少し自分自身を客観的に見れるようになったように思えることもたしかである。そういうふうに考えると、一歩のほんの半分くらい、前へ進むことができたのかな、という気もする。

 ネットでもリアルでも、被害者としての自分に拘っているように見える人は多い。ぼくはその立場が間違えているとは思わない。じっさいに被害があったのなら、被害者意識を持つことは当然のことである。被害者に向けて被害者意識に拘泥するな、などということはじっさい暴力的な話だろう。