べつだん才能だけですべてが決するわけではありませんが、大抵の努力は傑出した才能には及ばないことも事実。
ひとにははっきりと生まれながらの能力の差があり、それは後天的な要素だけでは説明がつかないのです。
しかし、それなら才能があるひとは必ず成功するかと云えば、そんなことはないんですね。
かのヴィンセント・ヴァン・ゴッホが一切の社会的成功を得られずにひとり孤独に自殺したことは広く知られていますが、おそらく過去には「知られざるゴッホ」がたくさんいたのだと思います。
ゴッホは死後とはいえ高い知名度を得たわけですが、最後まで社会的成功を得ることなく終わり、今後も評価されることがない才能はたくさんあるのだろう、ということです。
東野圭吾『容疑者Xの献身』の主人公は、天才的な数学の能力がありながら社会的な成功を得られず終わった男です。
どの分野でもかれのような男はいて、己の不遇を嘆いているのでしょう。
その数を正確に調べることはできませんが、ぼくのまわりにもいくらかいるくらいなので、じっさいには相当数いるのではないでしょうか。
それでは、どうして才能がありながら報われないひとが存在するのでしょう。
ひとつには、もちろんソーシャルスキルのあるなしがあります。
「マキャベリ的知能仮説」という言葉がありますが、ひとが生きていくためには純粋な技芸だけでは足りず、マキャベリ的な世渡りの能力もまた必要とされるわけです。
そういう能力に欠けているひとは、いくら特定の分野に秀でていても、成功を手にすることはできないでしょう。あるいはゴッホがまさにそうであったかもしれません。
しかし、それだけではない。ぼくはもうひとつファクターがあると考えます。
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