デジタルネイティブの時代 なぜメールをせずに「つぶやく」のか (平凡社新書)

 昨日まで4歳の甥っ子がうちに泊まっていました。4歳くらいの子供は可愛いですねー。

 これが小学校に入るくらいになるといっきに可愛げがなくなってくるのではないかと思うのですが、それは大人のかってな言い分で、成長に必要なプロセスなのでしょう。

 まあ、おじさんとしてはかくれんぼをして遊んだりしたのですが、見つけたり見つけられたりするとものすごくはしゃいでくれるので、いいなー、やっぱり素直っていいことだなー、と思います。

 いったいひとはいつかその純真さを失ってしまうのだろう?

 まあ、八歳のいとこの娘にパズドラを教えてもらったりしているぼくもたいがい子供だと思いますが。

 なるほど、おもしろいな、パズドラ。ヒットするわけだ。

 たった8歳の女の子が最先端のゲームにすっかり適応していることには驚かされますが、考えてみればぼくも子供の頃はそうだったので、これは驚くには足りません。

 ただ、4歳の甥っ子がiPhoneやらiPadを器用に操ってYouTubeの動画を観ているところを見ると、さすがにびっくりしますね。

 かれは2歳くらいのときにはすでにiPadを使っていました。

 まさに直感的インターフェイスの勝利なのでしょうが、いやー、それにしても、ほんとに子供でも使えるんだなー。

 もちろん、細かい設定なんかは手にあまるんだけれど、ただ使うだけなら幼児でも十分に使いこなせるらしいです。そりゃヒットするわけだ。スティーヴ・ジョブズ、恐るべし。

 この甥っ子や、いとこの娘は、もう生まれた時からインターネットがある世代なんですよね。

 今年35歳のぼくの世代にとってテレビがあたりまえのものであったように、かれらにとってインターネットはごく自然なものということになるのでしょう。

 かれらがいつLINEやTwitterなどのソーシャルメディアを使いはじめるのかはわかりません。

 しかし、あっというまに適応して使いこなしてしまうことは間違いありません。

 恐るべき子供たち。ぼくたち大人をはるかに追い越して、いったいかれらはどこまで行くのでしょう?

 ひょっとしたらかれらは生きているうちに人工知能や仮想現実といったスーパーテクノロジーが現実になるところを見られるかもしれない。

 そういうふうに考えると、何だか甥っ子たちがうらやましくなってきます。ぼくには見られない光景を見ることになるのですから。

 あるいはそれは恐怖や絶望の光景であるかもしれませんが、でもまさか第三次世界大戦が起こりはしないでしょう。

 ただ一面で心配でもあって、はたしてかれらはネットとの適切な距離感を保ちつづけることができるのだろうかと思うのです。

 もしぼくが中高生の頃にネットがあったなら、はたしてをそれを適切に使い切ることができたか、どうか、大変心もとないものがあります。

 たぶん必ずくだらないことを書いて炎上とかしていたと思う。

 ちょっとした炎上くらいなあまあいいんだけれど(いまでも時々やっているしな)、のちのちにまでのこるミステイクとかをやってしまうと取り返しがつかないですからね。

 もちろん、それはいかにも杞憂に過ぎないかもしれず、ぼくのような老人が想像することもできないような適応力で軽々とネットを乗り切っていくのかもしれません。

 ただ、中高生の頃にミスを犯してその後苦労するひとも必ず出ては来るんだろうなあ。

 ぼくたちはネットでバカを晒す青少年を見て非難しますが、中高生の頃なんてほとんどのひとが程度の差はあれ子供だし、バカだったんじゃないでしょうか?